今夜、世界からこの恋が消えてもを鑑賞して(ネタバレあり)

今回は予告を一切見ずに、セカコイと呼ばれるこの作品を劇場で鑑賞してきた。タイトルからしてハッピーエンドではないだろうなとは思っていたが、終わった瞬間には『切なさ』だけが残っていた。
しかし、単なる悲劇ではなくそれぞれ登場人物が苦しさや後悔を抱えながら、逃げずに前に進んでいく姿が描かれていた。

道枝くん演じる透は、スクールカーストでも決して上位に位置せず物静かな、どこか儚さを感じさせる心優しい少年だった。学校以外の場所に自分の存在を感じているような印象を持った。
幼い頃に母を亡くし、姉の背中を押し、頼りない父と一緒に料理や掃除をしてきた境遇から儚さを感じるのだろうか。
とにかく、みっちーの顔が良すぎる。

自分の事より誰かの事を思える彼の人柄に心打たれた。自分の時間が残り少ない事が分かった時に、彼のように生きられるだろうか。僕は、したかった事をたくさんしたい。そして、自分が生きていた証のようなものをどれだけたくさん残せるかを考えてしまう気がする。家族や友人、愛する人の記憶に僕という人間のいいイメージが少しでも長く生きてて欲しいと願うかもしれない。
しかし、彼は真織のために自分の存在を消す事を望んだ。2人で3つ目のルールを破っていたのに。忘れたくないと泣いた彼女の涙を拭ったのに。
自分がいなくなった後も、彼女に覚えていて欲しい気持ちや思い出して欲しい願いよりも、自分を思い出すことで感じる悲しみや寂しさから彼女を守ること、彼女の心の平穏を死してなお願っていた。

透は母から大切な事を学んでいたのかもしれない。一緒に過ごした時間は短くても、母が遺してくれたメモから料理や家事を。そして、死ぬ事への覚悟と準備の大切さを。
母が遺してくれたから今の自分があるという事は彼自身が1番分かっていたはずだが、今回自分は何も遺さない事を選んだ。あまりにも残酷で切なすぎる決断だった。ただ、彼が真織の事を思う優しさが周りにも伝わっていたから姉や泉など多くの人が意思を受け継いで実行してくれたのだろう。彼は託すという事を遺したと言えるかもしれない。
あるシーンで彼は「すべて忘れるわけではない」と言っていた。いつか彼女が何かを手繰り寄せて自分の存在を、あの日々を思い出すと信じていたのだろうか?ただ、その時には彼はもういないのだ。この事実に胸を抉られてしまう。
ふと、僕が思っている事や考えている事はどれくらい周りに伝わっているのだろうと考えた。
真織がメモを取るように、趣味・趣向は日頃の言動からある程度分かってくるだろう。それは一緒に過ごす時間が長ければ長いほどより鮮明に正確に。
自分がいなくなった後に、家族には自分の死に囚われてもらいたくない。きっとあの人ならこう言うだろうなと笑ってもらえるような生き方をしたいと思った。何気ない日常の大切さありがたさを再認識させられた。

今は携帯一台で大抵の事は記録に残せる世の中だ。どうしても記憶は少しずつ曖昧になり、抜け落ちていってしまう。手軽に残せる写真や動画やこういった文章という記録で、大切な記憶を補っている人が多くいるだろう。しかし、今作では真織の前向性健忘という特殊な性質も相まって、写真や動画などの記録は大切な記憶とともに簡単に書き換えられてしまった。
真織の中から完全に消去されたかった透が、唯一残してしまった手続き記憶。絵を描き続けることを提案した彼の矛盾。まさか、彼女が自分の事を絵描き続けると思わなかったのかもしれないが確かに彼女の中に残っていた。消えたかった透と消えてしまう真織の2人で作り上げた愛の形だと思えた。
何となくこの人の事が気になる。絵描きたくなるという自分では理由も根拠も見つけられないような直感に近いものこそが写真より大切にすべき美しいものなのかもしれない。

作品の小さな疑問として
透が最後まで、真織の事を苗字で呼び続けた理由が気になった。
単に、恥ずかしかったから?
恋人ごっこだから線引きしていた?
自分が消える覚悟が揺らがないために、これ以上彼女の中に入り込まないようにしたかったから?
辛く切なくなるから簡単な理由であって欲しいと願うが、きっと彼はちゃんと考えていたんだろうと思ってしまう。
彼女と恋人ごっこを始めた時から、自分の先が長くないと分かっていたんじゃないかとまで思わされる。彼自身、自分の事を逃げ続けてきたと言っていた。しかし、死への覚悟や耐性は年齢に見合わないほど高く、現実を1人で飲み込めない泉と対比されていた。さらに障害から逃げずに戦い続けている真織をそばで見てきた事で、彼自身もまた人間としてより成長し、達観していったように映っていた。

ここで少し映画の内容から逸れるが、今作の主題歌はヨルシカさんの「左右盲」だ。こちらの楽曲もまた映画をより淡く切なく、観る人を引き込んでいると感じた。歌詞からは透と真織の2人が読み取れる。そして、「幸福な王子」という短編小説をオマージュしているとのことだ。この小説からは、自己犠牲の美しさや何かを得たいのであればそれ相応の対価を払う必要があることを学ぶことが出来るのではないだろうか。己の身を削って誰かのために尽くす銅像の王子は透に似ている。瞳のサファイアを失うことで目が見えなくなっても、誰かの未来を幸せを願う事が出来る。中には、現世では報われなかったと思う人もいるだろう。もちろん、捉え方や感じ方は人それぞれである。僕は、ここにある自己犠牲はフィクションだからだろうか、現世や来世という次元では収められないと思う。こう述べると若干、宗教や信仰の色が出てしまう気もするが報われただとか見返りがあったとかではない深い慈愛をただただ感じる。しかし現実こそ、誰かのために自分を顧みないで行動出来る人が報われる世の中であって欲しいと思う。


福本さん演じる真織、本作では前向性健忘という重い障害を持ちながらも明るく振る舞う可憐な少女だ。透や泉に見せる顔は、こちらが少し恥ずかしくなってしまうぐらい甘酸っぱく可愛らしいものだった。生きていく事を諦めてしまいたくなるような状況でも彼女は2人に笑顔を与えた。同時に彼女も2人に支えられていた。彼女の日記は毎朝、絶望と希望を同時に運んできていた。未来を奪われている自分に、過去の自分が懸命に生きた証を残してくれている。

医学や心理学の専門的な知識を僕は持ち合わせていないが、積み重ねる事が出来ないとはどんな心境になるのだろうか。彼女は昨日の私や明日の私という表現をしていた。嫌な事を思い出さなくてラッキー?辛い過去を引きずらなくて幸せ?新しいことを何度繰り返しても新鮮に感じられてお得?容易に想像出来る事ではない。作中でも合併症として鬱病のリスクが挙げられていた。本人のプラス思考だけではどうにもならないのだろう。過度な刺激やストレスを与えない周囲の理解・協力なくしては回復は見込めないと思う。

小説と映画ではイメージが少し変わってくるが、真織の両親は透や泉に比べると、娘の未来に対して諦めのようなものを感じた。毎朝繰り返される、現在を飲み込み始めた娘とのぎこちない会話。迷惑をかけて申し訳ないと謝る娘に過去のあなたは立派だったんだと言い聞かせる。誰よりも娘の幸せや健康を願っているがこの障害が持つ暗い面を演出する位置に両親がいたのではないかと思う。何より、この障害の性質上、1日の始まりに立ち会う事が1番胸を締め付けられるのだろう。いつ治るのか分からない精神的にも不安定な娘を手探りで支え続けてきたのだ。

僕は冒頭にこの映画は単なる悲劇ではないと述べている。優しかった透は早すぎる死を迎え、真織の記憶障害の回復を見届けることは叶わなかった。そして失われた記憶は簡単には戻る事もなく、彼女は何とか取り戻そうともがいていくのだろう。彼女にとって透は間違いなく必要な存在で心の支えだったのに突然いなくなってしまった。2度と2人が会う事は叶わない。しかし、こういった不条理は僕らの現実にも存在している。命はどういった形であれ、いつかは燃え尽きる。永遠というものは簡単には存在しない。どれだけ大切にしたくても、握りしめた手からこぼれ落ちてしまう。その時の悲しみや悔しさを抱えながら、進んでいくしかない。恋人や友人との別れ、大切な家族の死、誰もがそういった出来事を抱えながら今日を生きているのだろう。抱える事は悪い事ではない。自分の人生を生きる上で、どう向き合っていくかが大切だと思えた。
今まで人を傷付けたり後悔はたくさんある。過去に戻ってやり直す事は出来ない。過去の自分が反省し学んだ事を未来の自分に託そうと思う。

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