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「こんなの自分でも描ける」ー技術と価値はイコールなのか

大阪に住んでいた頃、私は中崎町にある美容室を行きつけにしていました。
中崎町は小さなギャラリーがいくつも点在している地域なので、ギャラリー巡りのついでに行けるいい美容室でした。

ある日のこと、私は知り合いの作家さんが作ったトートバッグを持ってその美容室に行きました。トートバッグには、落書きっぽく奔放なクレヨン描きのゆるかわいい生き物が描かれていたのですが、担当の美容師さんがそれを見てひとこと。

「こんなんもアートなん?子どもの落書きやん!俺でも描けるわ」

それは軽い冗談めいたノリで出た言葉だったのですが、とても印象に残りました。

美容師さんは私が絵描きだということを知っており、「アート界隈の人が持っているものだから、おそらくこれもアートなのだろう」「けれど落書きにしか見えないし、価値があるようには思えない」という風に言っていました。

その美容師さんの中では、『自分には出来ない(高度な技術で作られた)もの』=『すごい・価値がある』ということになるようです。逆に言えば技術を必要としない、誰でも簡単に作れるものには価値がないということになるのでしょう。

しかしアートの世界では、技術を必要としない、もしくは必要としていないように見える作品に高い価値がつくことはよくあります。

上の画像はサイ・トゥオンブリーの有名な作品ですが、2015年にサザビーズのオークションにおいて約86億円で落札されました。

「黒板に適当にグチャグチャ線を引いただけで86億円?芸術ってわけわかんない!」という声が聞こえてきそうですね。

これは作家が直接手で描いているだけまだマシな方で、作家自身は全くなにもしていないというような作品も世の中にはザラにあります。

技術力の価値を高く評価する文化は、日本が技術立国として成長する原動力ともなったとても素晴らしい宝です。しかし技術力だけが価値を支えていると思い込んでいると、こういった技術力に依存していない作品がなぜ価値を持つのか理解できません。

アートにおいて実際重要なのは技術というよりも『何を目的としたものか』『その目的をどの程度達成できたか』『その目的にどれほど価値があるか』『いかにオリジナリティのある方法で目的を達成したか』であると、私は考えています。(金銭的価値においてはそこに歴史的価値や作家の人気など様々な要素が付加されますが割愛します)

ここで言う目的とは、現代アートにおけるコンセプトはもちろんのこと、「山々の美しさを表現したい」などといった視覚的な目的も含みます。おそらくすべてのアートは、何かしらの目的を以て制作されています。

その目的を達成するための手段は無数にあります。表現媒体は何か、具象か抽象か、対象の一部分か全体か、どのような素材を使い、どのようなタッチで、どのような色で……そういった無数の選択を繰り返した結果が作品という形で表れ、『その目的をどの程度達成できたか』が決定されます。

単純に風景の美しさを絵に描くにしても写真のように正確に描くか、主観や感情を重視して描くか、図形に分解して描くかなど選択肢は無限大です。

その選択肢の中には、高度な技術を要するものから全く技術の要らないものまで存在していますが、その選択肢の価値は難易度の高さではなく、『より目的の達成に適した方法か』『オリジナリティのある方法か』で決まると言っていいでしょう。作家の技術と作品価値がイコールにならない大きな要因はここにあります。

もちろん技術力があるに越したことはないでしょう。技術が高ければ高いほど選択肢は広がります。それをよく使うかどうかは別として、その気になれば使えるカードがあるというのは強いです。知識についても同様だと思います。

しかしそれは、アートの価値の本質ではないのです。技術を見せつけることを目的とした作品も存在しますが、アート全体から見ればごく一部のジャンルでしょう。

冒頭の「子どもの落書きやん!こんなの自分でも描ける」に対して答えるとすれば、子どもの落書きとアートは『何のためにそこにそれをそうやって描いたのか』という理由と目的が異なると言えるわけです。(蛇足ですが一見技術的でないように見えても、構成やニュアンス等において高度な技術が発揮されている場合も多いです)

技術力というのはわかりやすく、客観的にレベル認識を共有しやすい要素なので、アーティストも鑑賞者も価値観の拠り所として頼ってしまいがちです。しかし鑑賞者にとっては作品の本質、アーティストにとっては今後の課題となる重要な部分はそこではないのかもしれません。

アーティスト側の視点で考えると、テーマ選びや方法論自体に問題がある場合、技術力だけをいくら高めても成功に繋がらない可能性もあるということです。

技術は考えなしにがむしゃらに制作しているだけでも(効率がいいかは別として)いずれ成長します。

しかしコンセプトや表現方法の選択といった問題は試行錯誤に加えて考察・客観視・ひらめき等が必要となり、技術力以上に難しい問題です。

私も日々思い悩み、いろんな人にいろんな事を言われ、なるほどなあと納得したり、内心「うるせー知らねー」とフリオニールがレッドソードを構えたり、夢に出るほど気になったり、数秒後には忘れていたりといろいろ迷走しています。

この記事もまた、現在の自分の考察を記録として自分のために残しておくためのものですが、これを読んでくれた方の鑑賞時や制作時において参考になるようでしたら幸いです。ご拝読ありがとうございました。

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