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マリーアントワネットに君はなりたいか?

何をしても何を言っても自由。その「自由」がどういう構造で成り立ってるか?自由と引き換えに、音なく失っているものをあなたは感じているのか。

私の友人に「箱入り娘」がいる。俗に言う「箱入り娘」像とは、少し異なる気がする。だけど、アニメや漫画に出てくる「箱入り娘」は本当の現代に生きる「箱入り娘」ではないと思うのだ。

箱入り娘の代表格的シンボルとして「マリーアントワネット」を出した。井の中の蛙代表。世間知らず。何とも酷い言われようだ。概ね正しい。しかし、現代に生きているマリーアントワネットは少し違う。

彼女は音楽一家である。ある楽器を一家、いや一族で取り組んでいる。彼女も当然その一員だ。しかし彼女はある日、その楽器に疑問を持った。「私が本当にやりたいことは絵を書くこと」そう思うと彼女の体調はどんどん悪化していく。簡単に精神病になった。私は精神病患者や鬱病を本当に患っている人に対して「甘え」とは思わない。だけど、今向き合わなければならない物事から目を背け、逃げる為になったとしか思えない鬱病は認めない。都合の良い身体としか思えない。

勿論、場合によるのでここで細かく条件を書くこと自体ナンセンス。

鬱病になった彼女を導いたのは、その音楽一家そのもの。家族だ。その時、正社員で働いていた仕事を退職させ、楽器を休ませ、精神科へ通わせた。彼女は晴れて自由の身になった。「これからは我慢しないで、好きに生きなさい」羨ましい限りだ。

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すぐに彼女の体調は良くなった。絵を書くことも楽しんでいる。楽しくて楽しくて、プロを目指そうとする。絵を書くことに向き合う必要が出てしまう。絵を書くことが義務になる。楽しくなくなる。同時期に捨てきれなかった楽器の仕事が舞い込んだ。断れないと言い引き受けてしまう。彼女はまた鬱病になった。

彼女は楽器の仕事が忙しくなり、絵を書くことを諦めた。こんな綺麗な本末転倒を私は見たことがない。口から出る言葉は「眠れない」「精神薬を飲んでいる」「とてもじゃないけれど、頑張れる身体ではない」

家族はまた彼女を許し受け入れた。数年前に辞めた正社員。それからはアルバイトをして実家暮らし。家には一銭もお金を入れていない。もう30歳も目前である。

私は家庭があり、飼い犬もいる。極貧生活で、我慢することも多い。だけど、自分の力で生きてこそ、自分の好きなことをやっても世間が許してくれると思っている。大人なのに誰かの力を借りなければ追えない夢は、ただの大人になったつもりでいる子供のエゴだ。私もピーチジョンの下着を買ってみたい。だけど買えない。

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彼女にピーチジョンを見せる相手はいない。それを彼女は嘆く。私は安物の下着を可愛いと言ってくれる人がいる。だけどピーチジョンは買えない。どちらが自由なのだろうか。そもそも「自由」という曖昧な定義を人と比較すること自体愚かな行為なのかもしれない。だけど思わずには居られないのだ。小さな小さなコミュニティで甘やかし、生かされると、人は社会との正しい距離の取り方が分からず、壊れていくのだ。

私が彼女にそれを指摘すると、彼女は腹を立てた。「そんなパーソナルなことは言われたくない」と己をまた甘やかした。そして自分のことに何も言わない人とだけ付き合い、つるむ。一度、彼女の友人と二人で会った事がある。私が上記のような話をすると、その友人は「もう遅いですよね。恐らく気づいても、どうしようもないと思います」と言った。

私は彼女に、自立して欲しかった。他人の余計なお世話であっても、気づいて欲しかった。これから訪れる30年は、今までの30年に相対したものになることを。最初の30年をどう生きたかで、折り返しの30年の内容が決まってくることを。私は下世話だろうか?知ったかぶりをしてる偽善者だろうか?

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その友人の一言をもう一度書こうと思う。「もう遅いですよね」





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