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違和感の存在

最近ネットニュースぽちぽちしてると、
「20代で推しへのイベントやグッズ代等を使ったことを後悔してる」みたいな記事にちょこちょこら出くわすんですが、
(多分そういうのが出てきやすい記事ばかり読むからだと思うけど)

すっごい違和感あるんですよね。

その推しに費やした金と時間があればもっとライフステージがあがれたということなんでしょうけど、
若かった頃の精神の安寧を支えてくれた目に見えない部分を全部なかったことして、お金が出ていってしまったことだけにフォーカスを当ててるの、なんか違和感ありませんか?
じゃあ20代の時の自分が推しに出会わなかったら散財もせず、その分を貯金出来てたのって言われたら、自身を持って「はい」と言える人はどれくらい居るんだろう。
20代の自分は推しに出会わず、日々どう過ごしてたの?
20代の自分が居るから30代のが形作られてるんじゃないの?
その時期その時間、提供してくれたコンテンツに対して納得して対価を払ってたんじゃないの?
所詮たられば論で、
それを後悔なんて言葉で片付けるのは、その頃から心のどこかに引け目があったんなじゃないの?…というのは私の妄想ではありますが。

いつでもその時その時全身全力で推しをおしているとき、私は後悔の欠片もありません。10年前にハマったアニメグッズたちも、見ればそのとき生きる活力を与えてくれた推しに大して感謝こそすれど、処分しようと考えたことはありません(溜まっていく一方でそれはまたもん問題)

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