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「社会」と「虚構」に生きる、美しきクズどもへ(または就活生への確かな激励)

気づいたらさっき入れたばっかりのコーヒーを飲み干していた。
最近、こんなことがずっと起こっている気がする。
人の話をしっかりと聞いていたし、相手に質問されたことにはしっかりと答えているのに後で思い返したらどんな内容だったとかが全然思い出せなかったり。
はたまた一人で読んでいた本の内容を漠然と覚えているしなんなら途中で出てくる人名を細かく覚えているのに、まるで夢を見ていたような感覚を読了後に覚えたり。
旅行に気の置けない友人たちと行って最高の時間を過ごして馬鹿みたいに笑って写真も撮ったはずなのに、家に帰ってベッドに寝転んだらついさっきまでの出来事のはずなのに記憶が全てぼやけてしまっていたり。
兎にも角にもキアヌ・リーブス主演の「マトリックス」のように、夢なのか現実なのか妄想なのか幻覚なのかがはっきりしないという「気づき」を、ふとした瞬間に何度もさせられる。
もちろん、最近断続的に起きてる頭痛とか、起き上がるとするめまいとか、そういう原因らしきものには心当たりがあるので、もしかしたら何か脳に障害が起こっているのかも知れないし、早く病院に行くべきなのかも知れない。
だが、別段今始まったことではないのだ。昔からそうだった。ADHDの気ががあると言われてそれを病院に行って診断してもらったことはないが、何か一つのことに集中すると他のことに気が向かなくなってしまう傾向にある。
しかしそれが一体なんだというのだろうか。自分の知り合いのADHDたちはみな変人だが、同じくらいに優秀で、人としても温かみのある人物ばかりだった。
そして対照的に、「普通」のレッテルを貼られた凡人たちは、平凡でつまらなく、そのくせ自分達のことを「特別」だと思い込んでいた。
死ぬまで同じ企業でありのように働く連中が、果たして「とくべつ(笑)」なのだろうかという疑問はさておき、それは僕以外の人間を観察し分析した結果たどり着いたオナニーにも等しい結論であって、僕のこの症状を解明する手助けには何一つならない。
僕の意識は僕自身にしか認知できないのだ、悲しいことに。
もちろんこの僕の意識自体は、僕が一人で構成したものではない。親、友人、恩師、恋人、メディア、情報、環境、文化、さまざまな外部の要因が混ざった結果、「私」という人間は今こうして「自我」という虚構を保つことに成功している。
だが結局「私」という人間を一番「認知」しているのは私なのだ。
誤解しないでいただきたい、「認知」は「理解」と同義ではない。「Know thyself」と言っていたのはソクラテスだったかデカルトだったか、兎にも角にも暇を持て余して余生を思考することに費やした愚か者どもだったこと以外には明らかではないのだが、彼は正しかったのだ、自分という人間が最も理解から遠い場所にいることを。
寝て起きてクソをして他者と交流をして飯を食ってセックスをしてまた眠りにつくまで自分といつもいるのは自分である。そこにメタ的な視点があろうとなかろうと、後で自分が他人にいった言葉を悔いたり、懐かしい友人との記憶を思い返したり、自分自身について記述しようとして文章を書こうとしているとき、それは常に「過去」の自分を傍観する自分自身からの視点であり、過去は再び現在へと蘇るのだ。テセウスの船の話は何一つ役になどたちはしない。私は同じ人間であると同時に、全く違う人間なのだから。だから私が私を完璧に「理解」しようなんていうのは、烏滸がましい話なのである。
だが私は「私」を誰よりも経験し、見ることができる。その点だけを考えれば、私は誰よりも私を「認知」しているのだ。理性とは実に邪魔なものであると常々筆者は思うのだが、しかし我々の大半は理性というものを保有し、それが至高であると考えているので、自分自身をメタ的に認知する力を持つ愚者はチヤホヤされるものである。あんなものは自分を正しく認知しているのではない。他者が聞いて合理性のある、納得できる「私」というストーリーを作り上げられた人間がただ無闇矢鱈と評価されるだけなのだ。「私という人間はこういう過去の経験と失敗をこういうふうに乗り越え、そうしてその成功体験により今自分がある」。こうやって書くと少なくとも就活生は書類選考で大体通る。簡潔でわかりやすく、そうしてその会社でこれから奴隷のように主体性を失わせ、一生忠誠を誓わせることが目に見えている、こういう「虚構」が重宝されるのである。
あえて言おう、カス、いや、ゴミカスであると。
今の自分があるのは、計画的であろうとなかろうとセックスをした両親(ワンナイトでもレイプでも男と女、それか少しばかりの科学が必要である)と、「今ここ」を生きるまで喰らってきた他者の命と、他人の税金によって賄われたインフラ設備と、生まれる前からすでにあった国家と、誰かがしゃべっていた言葉と、その他もろもろ「他者」の力である(ここでいう他者というのは動物や植物、鉱物、宇宙、精霊など、人間以外のものもしっかりと含まれる)。もちろん、だからこそ臨済宗的に「生かされていることに感謝しろ」などというつもりはない。生まれてきたいと思って生まれてきた命など一つもないし、産んだ両親を憎む命もあるし、この世界は「喰う」ことと表裏一体で「喰われる」ことも存在する。全ての命と共に生きているということはユートピア的にお互いにわかり合って優しさの中で暖かく生きていることではない。家にゴキブリが出ればそれを殺そうとし、嫌な奴がいればそれをみんなで成敗してスカッとし、おばあさんが詐欺で騙されて大金をせしめ、非営利団体に多額の金を寄付して善人を演じるが「自分で稼いだ金なのだから少しくらいいい思いをしたっていいだろう当然の権利だ」とまるで寄付した同じ人間とは思えない理屈で豪邸をたて豪遊をし、あまつさえ「稼ぐことは他者を幸せにする」と本気で勘違いして資本主義社会を肯定して自分よりも低い賃金で他者を働かせてジョン・ロック的な「所有論」を振りかざし人から利益を吸い上げているくせに開き直るわけでもなく社会的には「善人」でありたい、そういうゴミカスどもと我々は生きているのだ。そして「悪人」は何も人だけではない。他の動物に寄生して生き延びる虫や動物を媒介するウィルスや、幼虫を養分に生えるキノコなど、人間の限定された愚かな思考を超えた「善悪」の世界が、この世の中には無限に広がっているのだ。
そんな不安定で未来の全く見えない世界の中で、人は安定を目指し、社会を築き、システムを構築し、「金融システム」という神にも似た存在を作り上げた。
その結果求められたのが「安定」を生み出すことを予感させる個人の「フィクション」である。
こんな経験はないだろうか。どう考えても取り柄のない、人間として最低で評価のできない友人が、大手企業に面接に受かったという話を聞いて信じられなかったことを。それは君たちが悪いわけではない。そして多分君たちは間違っていない。別に君にだけ悪い面を見せていて、他の人には善人であったわけではないだろう。そいつはクズなのだ。ゴミカスでそんな超一流の会社に本来は雇われる人間ではないのだ。しかしそいつは就活でそのポジションを勝ち取った。なぜか
「虚構」、いや、「フィクション」というストーリーは、実に素晴らしいものである。
ある面接官がTwitterで「自分達は人を見抜くプロだ」と豪語していたのを思い出す。
馬鹿馬鹿しい、と諸君の大半は思うだろう。
私もそう思っていた。人間のことがそう簡単にわかってたまるかと。太宰治の作品を全部読んだところで、太宰がなぜさっちゃんと自殺したのかなど永遠に分かりはしないのに。
だが違うのだ、フィクションを生み出す人間が、いかに「面接官」を隠し通すか、この冥利に尽きるのだ。
そう、面接官はここでは「愚か者」である。愚者である。ピエロにも等しい。
それはしかし致し方ないことである。数十行の自己紹介と数十分の対面でその人間の全てを把握することなど不可能である。
結局は面接官も人なのだ。彼らを「馬鹿だ」とか「愚か」だということがそもそも間違いなのだ。
なぜなら彼らはうまく「隠し通している」から。
ここで注意していただきたいのは、「隠す」ということは決して詐欺的な「悪」を孕んでいるわけではないということだ。
偽ることと隠すことは違う、と昔社会人に言われたことを思い出す。
虚構やフィクションは、もちろん「空想」や「嘘」によって作ることができる。
だが人間の「嘘」には限界があるし、「嘘」をまるで現実のように扱うことができるのはその道のプロ以外にはいない。
だが誰でも「言わない」ことはできるのだ。「隠す」ことはできるのだ。
そうして隠すことによって「虚構」を生み出すことができるのだ。
「私はインターンでこのような成果を出しました。しかしそれ以外にインターン先の上司と不倫関係に陥り、サークルで後輩に無理やり飲ませて救急車で搬送されるという事件を起こして、道端に落ちていた財布から現金だけ盗んで、卒論は卒論代行にやってもらいました」
という紹介文も、後半部分を消してしまえば、「私はインターン先でこのような成果を出しました」となるだろう。
立派な「虚構」、しかし「嘘」は一切ついていないのだ。なんて素晴らしいのだろう。なんて鮮やかなんでしょう。拍手喝采万々歳、それではみなさんご一緒に、テンポよく握手をしましょう!
そうしてその虚構性を証明するように、入社して不倫したり、パワハラやセクハラをしたり、陰湿ないじめを行ったり、何かを強要したり、サービス残業させたり、不快な思いをさせる人間が至る所に出現する。
当たり前だ、「隠した」部分は面接では評価の対象にならないかもしれないが、それはだからと言って自分自身から切り離されるわけではない。
「言わなかった」部分は、馬鹿野郎はいやでもついてまわるのだ。
そのいとも容易く行われるえげつない行為を反省し、金輪際しないと誓っても、被害者ヅラして負け犬の遠吠えをほざいてようとも、はたまた自分だけの秘密にしていようとも。
そう、例え他者がその事実について何一つ気づいていなくても、生まれてから「今」に至るまでずっと一緒にいる「私」はそれを認知し続ける。それをよく思っても悪く思っても、その事実は変わらないのだ。たとえその「認知している」という事実に気づいていなくても。
だから我々は常に人に見られているように行動しよう!よくないことは行わないようにしよう!などとカント大絶賛のことを言ったところ、私は多分地獄の業火に今頃焼かれているであろうカントに中指を立ててこう言わざる終えないのだ。
舐めるな、人間を、と。
理性など暇潰しのためにあればそれでいいのだ。明日がどうなるかなど誰にもわからないし、計画や未来への思考を巡らせたところで明日死なないという保証はどこにもありはしないのだ。
と、同時に我々の本能は我々が生まれた時から既について回るのだ。苦しいことはやりたくないし気持ちいいことはずっとしていたい。肉食動物は空腹という苦しみから逃れるために仕方なく狩りを行うが、人間は生命の危機に瀕していないのにイヤイヤ働くのだ、こんなに滑稽なことがあっていいのだろうか。
そう、人は滑稽なのである。なぜなら人は「虚構」のなかで生きているから。
「働かなければならない」
「いい大学に行かなればいけない」
「親の期待に応えなければならない」
「馬鹿にした人間たちを見返してやらなければならない」
「夢を叶えなければならない」
「自分は大成する人間でなければならない」
そういうストーリーを誰に言われるわけでもなく作り上げ、そうしてそれに沿って生きていくのだ。
人は、その虚構性の中で自分を主人公だと思うのだ。まるで少年ジャンプの一昔前の漫画のように、どんな悲劇も足枷も逆境も、全ては「ハッピーエンド」のために必要な要素であると信じてやまないのだ。
Aさんは寝る時間も削って、成功をひたすらに信じて残業をし、営業成績を残しました。そうしてその働きが認められ、昇進が決まりました!
やったー!!!
バンザーイ!!!
嬉しい、よかったね、Aさん!!!
これだけ書けばAさんの努力は報われたように思われる。だがもし、こういう続きがあったら人はこの「ストーリー」をなんと思うだろう。
でもAさんは昇進したその日に過労で死んでしまいました!!!残念!!!
馬鹿だなぁ、働きすぎて死んだら元も子もないじゃないか。そう思うのではないか。
そうなのだ、結局Aさんの頑張りや過程や結果を一連の流れとして見て評価するのは、文脈やよくAさんという人間を知りもしない人間なのだ。
Aさんは両親の学歴コンプによりスパルタ教育を施され、学校ではいじめられ、だからこそ社会に出て大成することでみんなを見返してやるという気持ちで身体が満たされているのです!!!
でもそれを会社の人たちが知るよしもありません!!!なぜなら誰もAさんのバックグラウンドストーリーになんて興味がないから!!!
これが現実である、などと馬鹿げたことを言うつもりはない。これも所詮は「虚構」なのだ。それがわからずに憤慨してしまった馬鹿どもにはお詫び申し上げる。申し訳ない、私の中指の写真でもあげるからどうか許して欲しい、ばーーーーか!!!
そう、我々は常に虚構の中で生きている。ヒュームがいうように人間は勝手に「因果関係」を育む生き物なのだとしたら、至極納得のいく話ではないか。なぜなら我々は世界や事件や他人のことを100パーセントわかるはずもないのに、この特異な性質のせいで、勝手に自分達で辻褄があるように調整してしまうのだから。
他人に対しても、そして自分に対しても。
結局私は何が言いたいのだろう。長々と書いて何が言いたいのだろう。就活の愚痴だろうか?悪いが私は学問という人類が数千年かけて築き上げた亡霊に取り憑かれてしまっているので、就活をしていないのだ。だからきっと就活の愚痴ではない。資本主義社会への不満か?しかし私は不満など抱いたことない。なぜなら両親は公務員であり、諸君らの汗水垂らした税金で私は悠々自適な生活を親の脛を齧りながら送っているのだから、感謝しかないものである。はたまた「クズ」や「カス」というレッテルのよく似合う異国の友人たちに想いを馳せているのだろうか。勘違いしないでほしい、彼が「カス」であろうと「クズ」であろうと、私は彼らを敬愛しているし、友人であることを自負しているのだ。
では何が言いたいのだろうか、「虚構性」に対して憎しみに近い感情をぶつけて、何がしたいのだろうか。
多分、何もしたくないのだろう。何もしたくない、ただ、ただ私は...。
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言わないことは、「偽る」ことではない。
この一文を持って、駄文を連ねるのを終了しようと思う。
読者諸君ら、そして少年少女らの虚構まみれの素晴らしき人生に、希望と絶望と、ほんの少しの愛をこめて。

佐々木トモル

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