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正義を守ること、悪を行うこと、優しくすること、傷付けること、そして、縁起の理法に貫かれることについての涙ながら考察した結果、ロックに生きることが正解だったという話

どうしてあんなに涙が溢れたのか、飛行機を降りたあとも、いや、そもそも泣いている時でさえも本当によくわからなかったが、僕はとにかく数年ぶりに号泣した。

動物のドキュメンタリー番組とか誰かの暖かな優しさで目が潤んだことは何度かあるけれど、泣くな泣くなと自分に言い聞かせてもそんなのお構いなし、まるで滝のように流れてきたのはいつ以来だっただろうか。でもここ10年、泣いた記憶はない。
しかしそんな過去の憂鬱を彷彿させるわけでも、好きだった女の子との優しい数々の思い出を思い出させるわけでもないその一場面に、僕は今まで生きてきた中で一番泣いてしまった気がする。

特別なことは特にない。

飛行機に乗っているときに、気圧の変化で永遠と泣き続ける赤ちゃんを申し訳なさそうにあやすお母さんの姿。

たったそれだけのことで、どうして泣けるのだろうかと思うかもしれないし、そんな長時間も泣かれるなら泣くより迷惑といって怒るだろうとも思うかもしれない。

間違いなく迷惑であった。綺麗事云々は置いておいてまずは僕が思ったことを上げていくとしたら、それが一番最初の感想なのだろう。

一週間連続で短時間睡眠をとっていて疲労で体が苛まれているにも拘らず、その泣き声は12時間以上あるフライトの離陸から着陸まで僕を起こすことに成功していた。もちろん座って寝れないというのもあるが、それ以上にその赤ん坊との距離が近くて、大地をつんざくような金切り声を上げているのだから、寝れるはずもない。

だが同時に、「赤ん坊だからしょうがない」という許容の気持ちももちろん存在する。

今こうして社会の一部として生きている我々が赤ん坊でなかった時期があっただろうか。もしそうならそいつは「ゼットマン」に登場する「プレイヤー」のような怪人だ。でも人間なのだから僕らは一度は赤ちゃんだったし、泣かない赤ん坊なんていうものは亡骸になってこの世界で泣く暇もなかった子たちを除いて存在しない。だから過去の自分を棚に上げて「うるさい」だの「迷惑だから静かにさせろ」なんて文句を言うのは傲慢甚だしい話である。

なんなら赤ん坊だって別に泣きたくて泣いているわけではない。一説によると気圧の変化によって頭が締め付けられるあの感覚が骨が柔らかく臓器などが未完成な彼ら彼女らにとってそれは想像を絶する拷問に近いらしい。おまけに一日の半分以上の時間そんなのが続くときたら、大の大人でも所構わず泣き叫ぶだろう。だから別に赤ん坊を責めたところで泣き止むわけでもないし、仕方のないことである。

ならばあやしている母親、その子供の責任者に問題があると言って責任を押し付ければいいのだろうか。「責任者」と言う言葉に相応しく、子供のやることなすことに「責任」を取らせればいいのだろうか。

そんなことは不可能だし、やっちゃいけないと直感的に思えないのだとしたら、その人は人間というものをだいぶ勘違いしている愚か者なのだろう。他人の行為に責任を取らされるのを上司と部下に置き換えてみれば簡単だ。部下の失態を勝手になすり付けられる何一つ悪くない上司の立場からすれば部下が許せないと誰もが思うだろう、つまりそういうことなのだ。

思うに「責任」とは社会の規範やモラルなどという幻に近いダサい思想を守らせる「責任」ではなく、自己を確立させ、社会に貢献できる人間に子供らを育てる「責任」ではないのだろうか。

第一一番大変なのは何を隠そうお母さんお父さんではないのだろうか。子供の心配もしなくちゃいけないし、周りの目も忍ばなくちゃいけない。そんな一番の苦労人に文句を言うなど、外道のすることだ。

だったら残された最善の策は心の中では「うるさい」だとか「迷惑だ」とか思いつつもその子供をあやすお母さんを労い、何も言わずにただ座っているだけなのだろう。

しょうがないのだ、全てがしょうがないのだ。仏教的「縁起」の概念にすべてが沿っているのだとしたら、飛行機に赤ちゃんと乗り合わせたことも、その親子連れが海外に行くことになったのも、僕がその日に元いた国に戻ることも、飛行に乗り心地の悪さも、全部全部偶然の産物に過ぎなくて、だからこそ誰も責めることなんてできないし、しょうがないことなのだ。

でも、いや、だとしたら、僕がこの抱いた不快感や同情の「心性」と、それを抑圧していた「理性」は、どう説明したらいいのだろう。ジョナサン・ハイトによると、人はまず「心」があり、その「心」の趣向を正当化するために「理性」があると言う実験結果が近年の心理学界隈を賑わせているらしいが、ならば僕が感じた「不快感」は、どうして「赤ちゃんが飛行機の中で泣く理由」を持ち出して抑圧されようとしたのか。どうして僕が感じた「同情」は、「もっと船とか使えばいいのに、周りを見ないと社会でやっていけないって万人が口煩く言うじゃないか」と正論気取りのゴミカスどものような理論で恨みへと変えられようとしていたのか(断っておくが「自分で考えればなんでもできる、逆に何かに失敗したり迷惑をかけたりするのは自分の能力不足のせい」などとほざくあのエセ自己啓発主義者どもを僕はゴミカスと呼ばせていただている。そして似たような思考をしてしまう以上、本当に本当に本当にいやだけど、僕もきっとゴミカスなのだろう)。

そんな自分の心情と理性との関係も、誰も悪くない「責任」の消失した飛行機の中で、泣いた赤ちゃんを見つめる無数の目と、お母さんの悲しそうな顔と、座り心地の悪い椅子と、さっき食べたばっかりのお煎餅のゴミと、隣のすらっとして僕がトイレに行くたびに嫌な顔一つしないで席を開けてくれるお姉さんと、誰か知り合いに似ている隣のお兄さんと、イヤホンから聞こえてくるザ・ハイロウズの「ロックをピアノの鍵盤で表現しちゃう」不思議な技術とが互いに絡まったり解けたりして、僕の心のずっとずっと奥の方に突き刺さったら、突然涙が止まらなくなって、恥ずかしから僕は顔に毛布をかけながら泣いてしまった。

ふと泣きながらバスの中で泣いていた赤ちゃんが周りに迷惑だからと降りようとした母親をヤクザが止めて、「みんなもそう言う時代があったのだから文句言わず暖かく見守ってやれ」と周りの乗客を諭したと言う心温まる話を思い出した。実話かどうかはともかく、それは確かに胸の熱くなる話だが、もしそのとき一人でも「うるさいから早く降りろ」なんて言ったら、その人は悪者になるだろう。でもその「うるさい」と言う気持ちは、誰もが持っているものではないのだろうか。「うるさい」と言う思いをそのヤクザは抑圧して、挙げ句の果ての自らの自制を他者にも強要したが、そうやって考えると、例えばヤクザが次の駅で降りて他の乗客が残り数時間の道のりをその赤ん坊と共にしなければならないのなら、そのヤクザはその一瞬だけ見ればヒーローだが、ヒーローなき場所においては制約を強要する迷惑なやつに他ならない。勝手に正義を押しつけ、その正義に準じた集団意識を植え付ける。やっていることは悪徳宗教と何一つ変わらない。

いや待って欲しい。それは「良いこと」ではないのか。もちろん間違いなくいいことだ。お母さんの苦労をねぎらうヤクザが悪いやつなわけがない。これは間違いないのだ。

だが優しさや正義は、時として、いや、この世界が「縁起」と言う理法の中で存在する以上、新たな苦しみや悪を産む。赤ん坊の泣き声に苦しみ文句を言いたくても先ほどのヤクザの行動のせいで口をつぐむほかないとか、心傷の女の子を優しさから慰めていたら好意を持たれてしまい、それを断ってまた傷つけるとか、革命を起こして王室の圧政から民衆を解き放ったら今度はお金と時間で地位が決まる肥溜みたいな社会が生まれるとか、結局一瞬の優しさははその後苦しみに変わるし、一瞬の正義もその後悪に変わるのだ。

でもそれは逆もまた然りで、それは流動的なもので、それは誰も逆らうことのできない摂理なのだ。

ならば正義とはなんなのだろう。

ならば優しさとはなんなのだろう。

ならば愛とはなんなのだろう。

誰かのためを思った行動が後で誰かを傷つけるのだとしたら、もう動かない方がいいのではないのだろうか。

何もせずただ石のようにじっとして、それで星空を眺めながら風に吹かれればいいのではないか。

心も脳みそも不要で、正義とか優しさとか愛とか何一つ感じず何一つ考えず、ずっと笑って生きていけたらいいのではないのだろうか。

そう思ったら正しさも真理も何もない世の中が顔を表して、僕はさらに泣いた。

何に泣いているのかももはやわからないから「悲しい」と言う感情はなかった。ただそれは「嬉しい」でも「恨めしい」でもなく、感じたことのない不思議な感情というわけでもなく、でもそれは言葉で説明できるものではなく、赤ん坊への思いでもお母さんへの思いでもなく、自分への思いでもなく、しかし確かな感情でただ泣いていた。

悲しいから泣くのか、絶望したから泣くのか、明日は見えるかもしれないけど今は見えないものがあるから泣くのか。

それとも、誰も知ることのできない、もっともっと別の理由か。

それは僕にはわからないし、わかろうとも思わない。ただもし、「人にやさしくしよう」とするその気持ちが見返りを求める場所から来ていて、「誰かを思う」ことが自己満足から来ていて、「誰かを愛すること」が性欲から来ているのだとしたら、多分この世界で定義されている「正義」という奴は、「悪」と呼ばれるものから来ているに違いない。

ならば「正義」が根っこにあったら、「悪」となってこの世界に現れるのだろうか。

人を殺すこととか、過ちを犯すこととか、誰かを傷つけることが、その根底に「正義」を宿しているのだろうか。

ああもううざんりだ、そんな全てを理論化しようとする、全てを二元論で片付けようとするダサすぎる大人たちには。

二元論で全てが片づけられないのは、この世界が二つ存在しないからだ。
僕たちの世界はどこまでも一つで、どこまでも無限で、二つ存在しないのだ。

だったら「正義と悪」とか「生と死」とか、「男と女」とか、そんな対比は本来不可能なんはずなのだ。

ダナ・ハラウェイが唱えるように、万物は全て動いているのだ。だから正義は簡単に悪になるし、悪も簡単に正義になる。

パンドラはとうの昔に禁じられた箱を開けてしまったから、僕らはどうしたって「希望」を持ってしまう。

「悪」がなくなるという希望を、世界が「正義」だけになる希望を。

でもピーチ航空でマスク着用拒否をしたあの大馬鹿は「世界が生きにくくなっている」と口にし、挙げ句の果てには「みんなが生きやすい良い世の中になって欲しい」とほざいた。そしてそれは僕らにとって「悪」でも、彼にとっては立派な「正義」に他ならない。

もうどうしたらいいか分からない。自分の正義が誰かの悪かもしれないし、誰かに優しくしたら結果的にひどくその人を傷つけるかもしれないし、誰かを愛したら何かを失わなければならないのかもしれない。

仏教が他の宗教と違うのはその点だ。この流動的な世界の中で最後の最後に「希望」が待ってないこと、「希望」があれば「絶望」がありどんなに「善」を望んでも「悪」との接触は避けられないこと、誰かを愛することが良いことではないこと、そう言った「しょうがない」理論は、人間に「光」をもたらそうとする他の宗教とは全く違う。

だから残酷で、でもそれは結局どうすることもできないもので、その中で生きていくほかないのだから、僕は泣いてしまったのだと思う。

僕はどうすればいいのだろう。

それとも、問うことをやめるべきなのだろうか。

問いは疑問や疑念から生じる。

なら、疑問や疑念を「分からないから知りたい」ものとして捉えるものではなく「答えを知ろうとしても鱗片しかわからないし、生きている上で知ることができればいいのはその一部だけだ」などと頭では考えないけど体感的にそう感じて、全てを悟って、ふっと笑ってそうしてその疑問や疑念を誘発したもののことなんてそのうち忘れてしまう、そんな生き方がいいのだろうか。

きっと、そんな生き方がいいのだろう。

そして人は、それを「悟り」と呼ぶのだろう。

そうすれば、世界はわからないけど、僕の世界は平和になるかもしれない。

争いも愛も憎しみも喜びも存在しないけど、でもそれは悲観することではなく、大いなる宇宙の中で生きているという覆されない絶対的な自信と心。それは多くの僧侶が追い求め、多くの武術家たちが体感しようとした感覚。

そんな風に、僕もなれるだろうか。

その答えは、そのうち見つけることになろうだろう。

だがもし、そういう風になれなかったら。

僕は赤ん坊と一緒に泣き、お母さんと一緒に困り、友人と一緒に怒り、世界とともに笑い、宇宙と共に笑う、そんな俗っぽい人間になりたいと思う。

悟りなんて下らないとロックンロールを奏でながら、ずっと世界について歌う人になりたいと思う。

なんか楽しそうだから。

なんなら、悟りを開くよりもそういう人間になりたいまである。

結局この問いの答えは、たった一つなのだ。

心の、世界の、縁起の赴くままに生きていこうという他には変えがたい答え。

生きてさえいれば、世界がなんとかしてくれるから。

だから少年少女よ、迷ったら、悩んだら、悔やんだら、心の赴くままに行こうじゃないか。

法律も世間の目も後のことも関係ない。

「ああしたい」「こうしたい」と思ったら、思いっきりやればいい。

そしたら後は世界がなんとかしてくれる。

みんながなんとかしてくれる。               

僕がなんとかしてあげる。

君のしたことが「悪」でも、そのうち「善」になるから。

どんなに後でそれが誰かを傷つけようとも、今その瞬間は立派な「優しさ」だから。

どんなに理屈を捏ねられても、誰かを愛しているその一瞬は本当に本当に綺麗だから。

生きようじゃないか、ロックに、そしてパンクに、大いに。

君たちの奏でるロックンロールに、幸あれ。

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