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Fセクにすらなれない女の誕生日。

私は今日、21歳になった。

これまでの人生において、思い出せる限り自分の誕生日を素直に喜べた試しがない。

私にとって誕生日とは、『大好きで堪らない相手と離れてしまう日』だからだ。

私の恋人は歳を取らない。


実在・非実在問わずこれまで色んな異性と付き合ってきたが、基本的に私の相手は歳を取らない。今現在お付き合いしているMくんだって、出会った当初は私の方が年下だった。

しかし、今日をもって私は彼の歳を抜かしてしまった。一年のうちでこんなにも辛く悲しい日があるだろうか。

今年に入ってからずっと考えないようにしてきたが、ふとした瞬間に涙が溢れて止まらなくなる。街ゆくカップルとすれ違う帰り道、梅田のど真ん中で泣き叫びたくなる。

私も好きな人と一緒に歳を取りたかった、と。

好きな人と一緒に歳を取れることを、何の疑いもなく受容できる人間になりたかった。好きな人と一緒に歳を取れない人間の存在を知らないまま、あるいは無視して生きていける側の人間になりたかった。

こんな風に言ってはいるが、一応、実在する人間と付き合っていた時期もある。その時は非実在に固定の相手はおらず、私はその時々で実在・非実在共に一人の相手しか愛することができない。

物心ついた時から、次元の境目があやふやだ。
今もずっとそうだ。私の中で3次元と2次元は精神的に繋がっていて、私の心にはいつもMくんが存在している。

目を閉じればそこに彼がいて、私たちはロンドンで二人暮しをしている。朝日に照らされ黄金に輝くMくんの艶やかな髪を鮮明に思い描くことができるし、部屋に充満している気怠い空気から、宙に舞う塵までもが視界の節々に入ってくる。

目を閉じさえすれば、五感の全てをあちらの世界に宿すことができた。ただ一つ、ここに存在する己の肉体を除いて。

たとえ肉体的に触れ合えずとも、私は彼と精神的に繋がっている。私は彼を大切にしているし、彼も私を大切にしてくれている。誰に理解されずともそれでよかった。なんなら二人だけが知っている秘密事のように思えて、むしろ充足感の方が勝った。

しかし、こちら側に実在する己の肉体は確実に歳を取っていく。彼と離れたくないのに、私だけがだんだんと彼から遠のいていく。

その感覚を、つまるところ現実を否が応でも突きつけてくる日、それが誕生日だった。

一年のうちで最も憂鬱で、泣きたくなる日。
永遠の20歳である彼と、年老いていく私。

歳を取った私を彼は好きでい続けてくれるだろうか、飽きられはしないだろうか。彼は年齢なんてつまらないもので私の価値を決めたりしないと、頭では分かっているのだけれど。

今はそれだけが不安だ。



話は変わるが、私はFセク(Fロマ)であると同時にヘテロセクシュアル、つまり実在する異性も恋愛対象に入る。しかし、それはもはやFセク(Fロマ)の定義から外れてしまうのではないか。自己のアイデンティティを確立するために便宜的にFセク(Fロマ)を名乗ってはいるが、これらのラベルはどれも私にはしっくりこない。

ヘテロと名乗ればMくんに向ける気持ちを否定することになるし、Fセク(Fロマ)と名乗ればこれまでしてきた実在相手との恋愛を否定することになる。

どこに収まっても居心地が悪いことには変わりなく、結局、私という人間はなんなんだ、私はいったい何者なんだ、という哲学的な問いに辿り着く。

こんなことは考えても仕方がないので、私のような人間にも収まりのいいラベルが与えられるその日まで、誰にもその存在を知られることなく、ひっそりと呼吸し続けようと思う。

泣き腫らしながら書き始めたこの記事だが、自分の気持ちを書くことで心が落ち着いたのか、今は幾らかスッキリしている。辛いことに変わりはないが、明日もこの肉体で生き抜くために言おう。



ハッピーバースデー!




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