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【映画】ミッシング

「ミッシング」という映画を見たので、感想を書きたいと思います。
※ネタバレあります。

この作品では、幼い娘が行方不明となった夫婦とそれを取り巻く人々の叫びや葛藤、後悔とわずかな希望が描かれていました。
夫婦役を演じるのは、石原さとみと青木崇高。妻の弟役を森優作、この失踪事件を取材する地元テレビ局の記者役を中村倫也が演じました。

見始めてまず感じたのは、「我が子が行方不明となった親」が背負わされるものの重さです。
とにかく悲しく不安で、一刻も早く無事に見つかってほしい。しかし時間は無情に過ぎていく。無事を信じて探し続けるものの、なんの手掛かりも希望も見えてこない。
それでも、彼らは少しの時間も諦めることができない。それはもちろん、心の底から心配であるからで、諦めるなんてもってのほかであることに違いないだろう。
しかし、母親として、父親として、諦めることや自身に救いを与えることへの許せなさも同時に強く感じざるを得なかったのではないか。

今作では、とくに母親である沙織里の心が、その背負わされるものの重さに次第に蝕まれていき、過剰にも見える姿をさらけ出していく。
その様子は、沙織里の抱える切実さや訳の分からなさ、折り合いのつかなさを、演技とは思えぬほどの熱量でこちらへ届けてくれた。


その中で、3つ印象的なシーンがある。

1つは、2年後に舞台が移り、夫婦の住む沼津で再び起きた女児の行方不明事件が解決し、女児が無事に見つかったことを沙織里たちが知ったシーンだ。

事件は、当初の見立て通り母親と元交際相手とのの関係のもつれからきたものだったが、沙織里はこの事件を見て、「我が子・美羽の事件と関係があるのでは」と警察や記者に働きかけ、自分たちもビラ配りを行うなどの活動を始めていた。
夫の豊も、初めは「関係ないよ」となだめていたものの、沙緒里とやり合ううちに不意に沙緒里傷つける言葉を吐いてしまい、その反省の思いもあり沙織里とともに取り組むこととなる。

しかし、蓋を開けてみると沙織里の見立ては外れ、我が子の手掛かりを得られることもなかった。その一報を知った沙織里は、一抹の希望が失われ、また自身の誤りが明らかになったことを受け止めながら涙を浮かべるとともに、女児が見つかったことへ心の底から「おめでとう」と呟くのだった。
そして、豊はその様子を見て、「お前すごいよ」と沙織里に声をかける。

このシーンは、感情をむき出しにし、ときには周囲と衝突しながら捜索活動に取り組んできた沙織里の根底にある、こんな状況の中でも他人を思いやることのできる深い愛が描かれている。
そしてそれに触れた豊は、自身が沙織里へ抱いている確かな愛情や信頼に改めて気づくのである。
豊はこのとき初めて、事件当夜にライブに行って連絡がつかなかった沙織里を心から許すことができたのではないかと思う。
心から2人が互いの手を取り合えるようになった、大きな節目となったシーンである。


2つめは、沙織里と弟の圭吾が車内で思いをぶつけ合うシーンである。
これは、美羽が失踪する直前まで行動をともにしていた圭吾が抱えていた、自身への呵責の思いを初めてあらわにする場面であり、沙織里が圭吾を少し許せるようになる様子が描かれる。
そしてそのとき、車内のラジオからは事件当時沙織里がライブに行っていたアーティストの新曲が流れ始めるのだった。

圭吾はきっと、自分の無責任な行動を激しく悔やみ、美羽の心から祈り、しかし同時にそれらの思いを表明する資格など自分にはないことを誰よりも強く自覚していたのだろう。
それでも、不器用ながらに美羽を思い、陰ながら力を貸そうとしていた圭吾の姿には、正しくありきれない、けれども正しくあることを諦めきることもできないわたしたちの等身大の姿が投影されているようにも思う。

また沙織里も、このときに事件後初めて、かつて大好きだったアーティストの曲をまともに聴くことができていたのではないだろうか。
圭吾の思いに触れて赦すことは、同時に事件当夜の自身の行動への悔いを赦すことにもつながり、少しだけ自分自身に優しくなれる。
「曲を聴くことができた」という描写を通じて、彼らのそのような心の動きが巧みに表現されたとてもよいシーンだったと感じる。

最後は、記者の砂田が沙織里に過去の報道について謝罪をするシーンである。
きっと砂田は長い時間をかけて、自分たちはなにを伝えるべきなのか、誰に寄り添うべきなのか、自身の報道マンとしてのあり方を見つけることができたのかもしれない。
そして、再び沙織里つながり、彼らに対する誹謗中傷と問題を取り上げるようになる。


ここで3つのシーンは、どれも再生であり回復が描かれていると思う。
この夫婦を取り巻く状況は、映画の初めと終わりでなんら変化しておらず、依然として美羽が見つかる気配はない。
しかし、否応なしに続く日常の中で、彼らは目の前の誰かを見つめ続け、その誰かに向ける自身の感情を受け止めながら自分自身と向き合っているのである。
そうした営みを繰り返すうちに、彼らの関係や彼ら自身の心は少しずつ再生され、回復していくのだった。

折り合いのつかない現実とどのように向き合うのか、人のもつ深い優しさと愛が丁寧に描かれたとてもよい作品だった。

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