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【映画】ソウルメイト

こんにちは。
たくあんこです。

先日、映画「ソウルメイト」を見ました。
梨泰院クラスで一躍脚光を浴びたキム・ダミが主演を務める、ソウルメイトの2人それぞれの人生と、変わりゆく関係をえがく作品。
とてもいい映画でした。

自由に生きるミソと、親や恋人といった周囲から望まれる選択をとってきたハウン。
2人の根底には芸術への愛が共通しています。
ハウンが幼いころに見たミソの絵には、忠実な写実をスタイルとしてきた彼女の表現では捉えきれない「自由」がありました。
それはハウンには描けないものでしたが、一方のミソにとっては、実はそれしか描けなかったりするのでした。

それは、2人の生き方にも反映されています。
ハウンは、ミソのようには生きれないと思っている。しかし、ミソはミソで彼女自身の歩むようにしか生きれない。そして、ハウンはそれを真に理解できていない。だからこそ、ミソもまたハウンに羨望と嫉妬の眼差しを向けている。
そんな互い思いが徐々にあらわになり、絡み合い、中盤のカタルシスへと向かっていきます。

ずっと一緒にいたからという理由で今もこれからも一緒にいる友人は、多くの方にとって身近な存在だと思います。
私にとっても、そういう人たちがいます。
しかし、互いの歩みの違いとその根底にあるそれぞれの過去、そして帰結としての今をまじまじと見つめ直してしまうと、その関係性はたちまち脆く崩れてしまうように思います。
少なくとも私は、ふとしたときにそんな恐怖を実感させられることがよくあります。
「ソウルメイト」では、そんな2人の脆い関係性が、とても鮮やかにそして残酷に描かれていました。

しかし、関係はぶっ壊されてからが始まりかもしれません。
時間をかけて、気づかないうちにどうしようもないほどほつれた関係だからこそ、一度めちゃくちゃにして、引き離して、そこからまた始まっていく、後半はそんな展開となりました。

そこでキーとなるのは、また「自由」です。
自由にしか生きられなかったミソは、カタルシスを経て、ミソにとっての堅実を探すはじめの一歩を踏み出しました。
一方ハウンは、これまでとってきた自身の選択には、自分の意志がほとんど反映されてこなかったことに改めて気付きます。
そして、仕事も家族も婚約者も全てを捨て、故郷の島を出る決断をします。
カタルシスを境に、ハウンとミソの人生は交差し、真逆の道を辿っていくように見えました。

ミソは大学年代のとき、ハウンを置いて島を飛び出してソウルで暮らしていました。
ハウンには、「シベリア鉄道に乗りながら絵を描く旅に出ている」と伝えていましたが、その実は学費や生活費を稼ぐためにアルバイトを繰り返す毎日で、旅なんて夢のまた夢でした。
しかし、ハウンにとってその旅は自由の象徴。
島を出て本格的に絵を始めたハウンは、シベリア鉄道の旅に出て絵を描くことをきっと夢見ていたと思います。
ミソと再会し、わだかまりを溶かし、そして絵の武者修行へと旅立つ、そんな未来が待っていればどんなによかったことでしょうか。
しかし、ミソの自由の実際が過酷な毎日だったように、ハウンにも苛烈な現実が待ち受けていました。

ここからは、この映画が「ソウルメイト」である所以のエピソードが続いていきます。
同じ作品に、2人が命を吹き込むことで再び重なり合うそれぞれの人生からは、その取り返しのつかなさも含めて、痛いほどの魂のつながりを感じさせられます。

自由にしか生きられなかったミソと、自由に生きたかったハウン。
しかし、その自由は、きっと彼女らの想像していたものとは全く異なる姿をしていました。
互いに自由のその実にふれ、痛いほど振り回され、その先でまた互いを見つめ合えたからこそ、儚く、美しく、力強く、そして逞しいあの作品が生まれたのだと思います。
そのとき2人は、初めて「ソウルメイト」となったのだと思います。

青春は、現実に強烈な爪痕を残していました。
それは2人だけでなく、きっと私たちにも。
その爪痕の疼きを見つめながら、たまには少し撫でてあげてもいいかな、なんて気持ちにさせられるような、素敵な映画でした。

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