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リーチングアウト 01

【一】

 枯れた田園にひとつ、煙草を吹きました。
 最後に窓辺で煙草を吐いたのは十一月の最後の日曜日でしたね。今は十二月も終わりに差し掛かり、年末の空気が北風に乗って差し込んでくるようでした。十一月と比べて身体は瘦せ細り、髪の色は情けなく抜けましたが、精神に生気は漲っております。
 鬱とは死を飼い慣らすか、喰われるか。SNSでこんな文言を目にしたことがあります。その言葉に準えるならば、私はあの日間違いなく喰い尽くされてしまったのです。完全に敗戦です。灰になり、廃となってしまったところから産まれ直したといったところでしょうか。

 語り出すかどうかはずっと迷っています。これを記している今も。だが齢をまた一つ無事に重ね、少しずつ言葉と向き合う力が戻って参りました。そんな今、いつか見返した時にあの出来事を忘れてはならぬと。祝いの言葉を貰えて、美味いものを食べられて、脈動が続くことに感謝をしなければならぬと。
 思うところがあったとしても気に病まないで下さい。誰も怨んではおりません。寧ろ私と繋がりを持ってくれる人にはどれだけ感謝しても足りないと常々考えています。ありがとうなのです。そうですね、まずは、あの晩について語らせてくださいな。


 非常に不思議な感覚だったことはよく覚えています。忘れようがありません。
 楽しかったことが全て終わった夜でした。待ち侘びた爆音を全身全霊で浴びて、職場の唯一残っている同期と酒を飲み交わし、終電を逃して約十キロメートル家まで歩き爆睡。翌日大学時代の友人と会って語り合って、私が作った夕飯を食べ終え、感謝の言葉を貰い解散しました。
 賑やかだった数日間が駆け抜け、独り部屋の座椅子に腰掛けて天井を仰ぎ見ました。心はからっぽ。この後何があるのかな、とか。何を糧にすればいいのかな、とか。そもそも生きていけるのか、とか。こんなことがぐるぐるぐるぐる。ただ漠然とあったのは「後悔はしたくない」これだけ。そんな時、ふっと死神が舞い降りたのです。

「もう、いいんじゃない?」

 それはそれは優しい声でした。今まで喉元に冷たい鎌を突き付けて引っ掻けてきたあやつが、突然耳元へ甘言を。そのホットココアのような滑らかな優しさに私は寄り掛かることにしてみようと決めてしまったのです。この決断にも後悔はありません。しかし、私と関わりある皆様に多大な迷惑をかけてしまったことだけは非常に申し訳なく思っております。

 後悔を残さない。死神の力を借りてよれよれの心に糸を掛け、彼と相談しながら決めたのは、玉砕。

「憧れの人へ想いを伝えずして去ることは出来ないね。」

 その想いは拠り所を求めていただけだったかもしれません。枯れていく渇いた心に潤いを与えてくれていて、それが昇華したのでしょう。長年素敵だと思い続けたその人への想いは日に日に重く重なり、やがて心臓を握り潰さんとばかりに鷲掴みにされていたのは真実です。勿論淡い期待が全く無かったと言えば噓になります。しかし何よりも終わりへと突き進んだ時に「この感謝を伝えなければ終わった後で後悔する」という強い確信があった故に踏み出したものです。我儘を申し上げたにも関わらず夜分に時間を頂けて、支離滅裂で情けなく、纏まりの無い言葉でしたが何とか伝える事が出来ました。突然不躾な言葉を投げてしまい本当に申し訳ありませんでした。

 そこから先は早いもので、とんとん拍子で事は運んでゆきました。大事にとっておいた終売のラム酒を出鱈目に割って勢いよく飲み、肺を煙草の煙で満たし、重低音に乗せた重苦しい歌詞に感情を移すだけ。酒を飲めば飲むほど、ますます心が渇くのがよぉく分かりました、分かりましたとも。さて遂にその時が訪れました。

 ネクタイをひとつ手に取って、近場のどぶ川沿いにある木に結び、ベンチに乗ってもう一つ結びを作りました。煙草を吸い切り、とんっ、とベンチから離れました。さよならなんて言葉は要りません。
 だが無情にも、結び目と結び目の間にぴんっと張った部分は支えるだけの強度を持ち合わせてはいなかったのです。無人の夜、みっともなく地べたにうつ伏せになりながら己の浅はかさに頭を抱えました。
 まぁ強力な助っ人が背中を押してくれて恐れはありません。数本のネクタイと刃渡りの長い包丁を二本。複数ならば逝けると考えたのですが結果は同じでしたね。一本ずつぶちっ、ぶちっとちぎれて数刻前と同じ場所に同じ姿勢で倒れる羽目になりました。そこで持ってきた二本の出番です。闇の中無我夢中で手首を刻み、何かが流れ落ちる感覚だけを頼りにどぶ川へその手を突っ込んで眠りました。

 薄明りが瞼の隙間に差し込み、意識が戻ってきてしまいました。腹立たしい事に朦朧としていたのはただ酒のせいだったのですね。少し覚めてしまった脳に死神の叱責が響き渡ります。

「いつまで此処に留まるのだ」
「まだ何か未練があるのか?」

 そんなものなんて無い、と呟き部屋に戻りました。机上には常備薬。何故これを見落としていたのでしょうか。崇拝する文豪だってこの手法を選んだというのに。ありったけを取り出して迷わず湯を沸かして溶かし、緑とも水色とも言えるその液体を口に含んではすっかり温くなった酒で流し込んでを数度繰り返しました。そして、残ったネクタイのひとつをドアノブに括りつけたところで記憶は途切れています。

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