見出し画像

渦中から君へ3

こんなに暗い金曜の夜ははじめてだ。

週2回のランニングは、君を寝かしつけてからなのでだいたい夜の10時を過ぎてからの出発になる。これまでも金曜に走ることはあったけれど、ランニングコースには開いている店があり、歩いている人があり、何より運転代行の車の往来をよく目にした。それが、ない。いや、実は家の前のコンビニに一台だけ停まっているのを見かけた。それきり。ほとんどの店は閉まり、人はいない。ランニングをやるものとしては走りやすくていいのだが、この異常さのことを考えずにはいられない。

そういえば君がこれを読むころに今と同じ場所に住んでいる可能性は限りなく低いと思うのでこんなことも書いておきたい。
引っ越してきた際に挨拶もしないでいたお隣さんはどうやら母子二人で暮らしている様子で、お母さんとは一度、娘さんとは数度、外通路で顔を合わしていた。そのときにはこんにちはと挨拶を交わしているのだが、まだコロナの問題が大きくなる前のこと。君を保育園に送っていくタイミングで外に出ると、ちょうど娘さんも自宅のドアの鍵を閉めているところだった。娘さんはほっそりとした高校生で、君を見て「かわいい」と言いながらほがらかに笑っていた。そのとき、ぼくは君にいろいろ声をかけながらよちよち歩きの手を引いていたのだったが、ふとその前を階段を降っていた娘さんが「おなまえ、なんていうんですか?」と尋ねてきた。ぼくは別にためらうこともなく君の名前を教えた。すると娘さんは「え!私もですよ!」と驚いているので漢字も尋ねたら、君と同じようにひらがなだということがわかった。

君の名は「君の名は。」からではなく、同じ年に公開されて「君の名は。」ほどではないけれど話題になったアニメ映画の主人公からつけた名前だ。その主人公は君が生まれるちょっと前に死んでしまった君のお婆さんくらいの年齢だけれども、今でも一般的と言っていい名前だとは思う。それでも同じアパートの隣の部屋のお嬢さんがまさか同じ名前になるとはね。

ちなみにその作品をぼくはその年に公開された映画のベストに挙げていたのだけど、実はその前年に公開された映画の中でぼくがベストに挙げていた作品も主人公が同じ名前だったりする。そちらは実写の日本映画だけれども。ここまで書けばちょっと映画が好きな人なら君の名前を言い当てられそう。

まだ君は君の名前をうまく発音できないけれど、発音が不完全ながらも毎日、自分の名前を口にし、自分の体にその名前を染み込ませているように見える。自分の名前に限らず、君のくちびるから発せられる不完全な言葉たちは、今でしかありえないかたちで響くから愛おしい。今はまったく何を言っているかわからない言葉を発していても、唇の上でぺちゃくちゃともまれながら次第にそれらは意味を結び、やがて自分の意志や、自分の意見を伝える道具として、君の大切なものになる。

今はまだ不満があれば「やだ」と言うか手を出してくる君だけど、こうしてせっかく習得されていく言葉こそ、大事に大事に使っていってほしい。武器として、防具として、ずっとそれといちゃつきながら暮らしていってほしい。

ところでお隣のお姉さんはよくお風呂で歌っている。くぐもって聞こえるのでなんの歌かはわからない。一方君はいま「ぞうさん」の練習中。「おーはながながいのね」のところでいつも音程の迷子になるのも今のうちだけなのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?