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医療者であることを内省する

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医療者として働くうちに、「ふつう」の感覚、「患者」の感覚を忘れていく。時々立ち止まって、「ふつう」であることや「患者」であることを取り戻そう。
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「何者」でもない大人になる

幼い子どもは皆そうなのだろうか、幼い私には万能感があった。 こんな子どもは鼻について仕方がないと思うが、5、6歳にして、「自分の方が賢い」と周りの大人を見下していた。 小学校中学年くらいの時、桜蔭高校から東大の理科三類(日本で一番難しいところである)に行った人の話を読んで、私もそのルートを辿るのだろうと思った。 そして、何かはわからないけど、「エラい人」になるのだろうと思っていた。 今思えば私は自分が決して天才でもなんでもないことを身に沁みて知っているが、 負けず嫌いな性

【前編】良い精神科医ってどんな人?〜約20人の主治医レビュー〜

たくさんの主治医に出会ってきた私に、どんな主治医に出会ってきたのか知りたいというお題をいただきました。 ありがとうございます。(お返事が遅くなり恐縮です) また、参考にしてくださっているとのことで、とても嬉しくありがたく思っております。 今まで私をみてくれた主治医は何と20人くらい。 色んな精神科医を見てきました。患者だって、精神科医のことはよく観察しています。 エピソードトークしつつ、どんな精神科医が良いのか考えてみることにしました。 今まで私の主治医はコロコロ変わって

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「支援される」ことの息苦しさ

「よかったら仕事の相談に詳しい人がいますけど、相談していきませんか?」 「や、いいよ(苦笑)。前もそれで『ハローワーク行ってください』で終わりだったしね。」 生活困窮者のための炊き出しで、色んな人を支援につなげようとする中で、聞かれた言葉である。 スタッフの札を下げた私達が声をかけにいく素振りを見せるだけで首と手を振って拒絶の意を示す人もいる。 幾度となく「支援」されることに慣れている人たちの一部は、「支援」の偽善性や安っぽさに呆れているのかもしれない。 私は、人生で最も

「本当のこと」が言えない患者たち

医療者の仮面を脱いで、一歩アンダーグラウンドに踏み出すと、 「精神科の患者がいかに『本当のこと』を医療者に言えずにいるか」ということを痛切に感じる。 精神科というのは特異な場である。 心を病んで助けを求めるその場は、医療者と患者が共に患者の心にアクセスしようとする試みがなされる。 精神科医や看護師は、患者から「人生」「内面」らしきものを聞き出すことで、その人のことをあたかも深く理解しているような気分にさせられたり、 あるいは、にじみ出る雰囲気や表情や仕草を眺めることで、プロ

当事者が支援者になるということ

久しぶりに文章を書きたくなった。 虐待的な家庭環境で育った私は、高1の頃から様々な支援・心のケアを受けながら過ごしてきて、今は精神科の看護師を目指して勉強している。 よくできたストーリーに聞こえるが、「本当に私が支援者になっても大丈夫だろうか」という葛藤をしばしば突きつけられる。皮肉にも、もともと生きづらさを抱えていた私は、その探求と共感のために進んだ道でさらなる生きづらさを抱え込んでしまったようだ。 当事者が支援者になることの是非をたまに耳にする。 「心の弱い人は自

守られること/侵されること

タイトルの”/”は「対比」の意味ではない。「オモテとウラ」という意味である。 私はこの事実について自分で自分に辟易しながらも、考え続けてきた。 「辟易する」というのは、ある時、身体拘束を受けた時の経験から身体拘束断固反対の立場をとらざるを得なくなった者として、「病院や医療者」という実行者を恨んでいるにも関わらず、同時に実行者である「病院や医療者」に日常を支えられている点にある。 「恨め」と「求めよ」という相反する自分の心のダブルバインドに苦しめられているのである。 この間

医療者は罪に気付けるのか

医療には、「行動制限」というものが存在する。 入院している患者さんが自由に行動できないようにすることである。 転倒リスクの高い高齢の患者さんなら、転ばないように、室内のトイレに行くにも看護師が付き添う。 用件時のナースコールを依頼しても「協力を得られなさそうな」人には、「離床センサー」というマットを足元に置いて、踏んだらコールが鳴るようになっていて、看護師が飛んでくる。 離床センサーだけでは間に合わない人や、手術後で起き上がってはいけないけれどそのことが「分からなそうな」人