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【読書日記・6】「何となく」への問い
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中学の時、授業始まりの挨拶をちゃんとやらなかったという理由で、美術の先生に怒られた。教室の後ろの席で「起立」はしたものの、礼を中途半端にやって着席したのが教壇からは目立ったようだ。すぐに名前を呼ばれ、やり直しをした。
その後、担任の先生にも注意を受けたので、美術の先生はそうとう私の「起立・礼」が気に入らなかったのだろう。どんな礼をしたのか忘れたが、客観的に見ても酷かったのだろうな、と思う。
当時、私は先生に反発した訳ではなく無意識だった気がする。1日に何度も「起立・礼」を繰り返し、何となくやっている行動は形式的になっていった。そう、私はただ「何となく」やっていたのだ。
「起立・礼」にどんな意味があるのか。教師への敬意なのか、気持ちの切り替えなのか。当時の私は理解せずに、チャイムが鳴り号令がかかったから、流れ作業のように「起立・礼」をしていた。
この出来事を思い出したのは、めがね旦那さんの著書『その指導は、しない』を読んだからだ。教師の立場から、学校の当たり前や「何となく」に問いを投げかける。整列について、宿題について、休み時間について。正しいか、間違っているかではなく「何となく」という習慣に、ハッとさせられた。「何となく」の習慣は思考を停止させ、疑問を抱くことも真相を知ることも諦めてしまう。
前に長男の波平が「世の中の問題は、価値観を変えないと解決しない。」「大人は子どもに自分たちの価値観を押し付けないでくれさえすれば、それでいい。」と言ったことがある。この本にあるように価値観をアップデートするのは、教師だけでなく親も必要だろう。そうしないと無意識に、次の世代へ価値観を押し付けてしまいそうだ。
当時の私が「何となく」の行動に気づき考えることをしていたら、いま何かが少し変わっていたかも知れない。波平たちの世代に疑問をなげかけられたら、私はちゃんと答えを持っているだろうか、と疑問を抱いた。
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