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まだ言葉を探す人でいたい

「食事とコミュニケーションのリハビリ」というニッチにも程がある言語聴覚士という仕事に、13歳の頃から10年間憧れて就いた。
そんな念願の、かつて長年の夢だった仕事を辞めようと思ったことが今までに3回ある。


1回目は、毎日担当の患者さんから食事を拒否され続ける日々が1ヶ月ほど続いたときだった。
お年を重ねて認知機能が低下し、しかも今回のご病気で喉や口周りの筋力が落ちたことで今まで食べていたものが召し上がれない方だった。記憶が曖昧になり、もともとお酒がお好きでお食事はあまりだったという、昔気質の職人気質の方。さっき食べた!いらない!いらねえ!やめろ!いらねえっつってんだろ!を繰り返す方に「じゃあどうしろって言うの」と泣き叫びたくなる気持ちを必死に抑えながら毎日向き合っていた。



2回目は、お給料の安さを理由にバタバタと周囲が退職していったのと症状の重い患者さんで悩む日々が重なったときだ。
そのとき担当していたのは、全身管だらけで、なんとか医療技術の上で生命を維持しているような方だった。手を握っても返ってくることはなく、声をかけても目が合う訳ではない。まるで自分が透明人間になったような気分だった。
「諦めなきゃって分かってるんですけど」と声を震わせながら話してくださった奥様の声が何度も頭の中でリフレインして、そのたびにどうにかならないだろうかと苦しくなった。

そんなふうに苦しみながら他人の人生を一緒に背負っているけれど、お給料が良いかと言われたらそれは、である。もちろん生活していくだけのお金はあるし、今の暮らしに不満はなかった。
けれど、なんというか単純に「見合わない」と思ったのだ。

介護福祉、保育、美容、国家資格とはいえハードかつお給料が高いとは言い難い職種はこの世に掃いて捨てるほどある。それが自分の生活になると、ふとしたときにポッキリと折れてしまった。こんなふうに誰かの人生を背負い続けるのは重かった。


それでもいつも、もういい加減やめてしまおうかと思うたびに、必ず泣きそうになるほど嬉しい瞬間があるのだ。

今までごく簡単なやりとりしか出来なかった方が名前を呼んでくださったとき。鼻から栄養剤を流すために通していたチューブを抜き、ご自身でパクパクとお食事を召し上がっているとき。目すら合わせてもらえず泣きそうになりながら毎日向き合い続けていたら、自分にだけには「おう」と応じてくださるようになったとき。


この仕事は麻薬なのだと、いつも思う。
やめられないやめたくない。もう嫌だやめようと思うといつもこういうことが起きる。

「あおい先生〜!」と患者さんが廊下の向こうからガシガシ車椅子を漕いで満面の笑みで向かってきてくださるのが、脳梗塞で言葉が満足に出づらくなってしまわれた70超えの人生の大先輩がわたしを見つけるたびに「ししょう〜」と呼びかけて、言葉をなんとか操りながら話してくださるのが、どれほど嬉しくて有難くて仕方ないことか。
四捨五入してやっとこさ30になる若造に心を開き、「先生がいてくれるから頑張れるよ」と全面的に信頼してくださることにどれほど救われているか。

皆さんはきっと、知らないでしょう?
いつもリハビリを終えるときに「ありがとうを言うのはこっちだよー」と笑う皆さんに、わたしがどれほど感謝しているか、ご存じないでしょう。


だからこそ、負の気持ちに釣られた辞めたいと思う気持ちは自分で払拭できた。お給料が高くないのがなんだ。自分なりに豊かに生活はできているし、ブランドものが買い漁りたい訳ではない。充分暮らしていける。やり甲斐搾取がなんだ、搾取していけ。そんなふうに、思っていたけれど。

一度だけ、前向きに辞めようか悩んだことがある。


それは、ある求人ページとの出会いだった。

編集者募集の求人だった。未経験者歓迎。
「いずれは「あなたじゃないと、ダメなんです」と言われる代えのきかない編集者になってもらうこと」と綴られたその文章に惹かれた。惹かれてしまった。
なにを思ったか、応募フォームまで開いてしまった。普段なら絶対にそんなことはしないのに。
たまたま書いた文が他の方の目に留まることが増えてきた時期だった。好き勝手文を書き散らかしていたら満足していたはずだったのに、もっと認められたいもっと書きたいと思うようになってしまった。

わたしにとって文を読み、そして書くことは、どうしても仕事にするのを諦められない分野だった。


今は夫になった当時の恋人に「自分の気持ちに折り合いがつけられない」と話したら「惹かれた自分の気持ちを大事にしてあげて」と背中を押されたのもあり、祈るような気持ちで面接に応募した。なにかを祈っていた。モノを読み書きする世界に縁がありますようにありませんように。

結果として、書類審査でご縁が無かったことを知らせるメールを受け取った。そのとき安心した自分に気付いたことでやっと「まだ医療の世界にいたい」と思えた。その後ある患者さんとの思い出を書き綴ったnoteが入賞した。
わたしは「言語聴覚士」から「文を書く人」に移りたかったのではなくて、「文を書く言語聴覚士」になりたかったのだと、そこで気付いた。

言葉が出づらくなった方で、かつ文を書くお仕事に復帰したいとご希望の患者さんに「あおい先生はさ、」とお話をいただいたことがある。

「あおい先生は、いつも優しい。
ちゃんと、言わなきゃなことは言ってくれるし、えーと、でもちゃんと、愛を感じる。それはあおい先生の人柄と、言葉の、なんていうか、うーん、選び方?ですね」

「今より、もっと話せないとき、?に、あおい先生が、一緒に探してくれたの、嬉しかった」


その言葉がすべてだった。

書きたいことは沢山ある。仕事のことも、日々のことも。けれど今は「書く人」ではなくて「探す人」でいたい。
ある日を境に、思うように言葉が出なくなってしまった方々の言葉探しは、毎日とても難しい。砂山の中から砂金を探すような、深い海からちいさな貝殻を見つけ出すような、そんな気が遠くなるような日々が続く。それでも一緒に伝えたいことを、伝わる言葉を探す人でありたい。


「あおい先生と、話したいことが、たっくさんある!」

そう思うから、「わたしもです!」と迷わずわたしは患者さんに返すことができる。
これからも、ずっと。





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