見出し画像

ラベルは時に乱暴だから

上野で人に会った。

この人のことを説明するとき、いつもすこし悩む。
きっと有り体に言えば「かつての恋人」や「昔からの友人」「元バイト先の先輩」なんてものが正しいのだろう。でも、どれで括るにも乱暴な気がしてしまう。

多分今のところ24年の人生のなかで、もっとも好きになった人だ。と言うと今の恋人に対してごめん、と思うけれど、彼はわたしにとって水のような存在なので許してほしい。水、世界で1番好き!!!!とはならないでしょう、あれと一緒です。
この人は、わたしのありとあらゆることを知っている人。物理的距離こそ遠かったけれど、心的距離ではかつてとても近くにいた人だった。もしかするとそれは、過去形ではないのかもしれない。今だって充分近くにいる。けれど、ほんのすこしだけ距離ができた。きっと、握りこぶし1つ分くらいの、わざとらしい距離感。わたしもこの人も、おそらく意識してこの距離を保っている。


手の表と裏のような人だった。好きな音楽も本も映画も、入りたくなるお店も手に取るものも、笑ってしまうほど似ていた。この人がわたしで、わたしがこの人のようだった。それはおそらく、親元を離れてから社会に出るまでの淡い4年間に最も近くにいたゆえでもあるのだろう。

「隣にいながら、なんで手を握ってないんだろうと思うことが何回かあった。手すりに触れるみたいに、当たり前にあるような気がして」


神田川を横並びで腰掛けて眺めながら、その人は言った。ほんとうにね。たとえこそ違えど同じことを思っていた。不思議だ。

ひさびさに会ったと思えないくらい、すんなりと空気に馴染んだ人だった。当たり前のように横を歩いていて、まるで自分がもう1人いるみたいに楽に息ができた。
わたしも考えてたよ、なんでわたしこの人と付き合ってないんだろう?って。

「もしかするとあなたが運命の人なのかもしれないけど、運命の人にしたいのは別の人なんだよね。」

そうでしょう?と問うと、その人も不思議そうに肯定していた。こんなにも近いけれど、わたしが今付き合っているのはこの人ではない。好きなのも。付き合っていたいのも。

世間にはきっと「やっぱりあなたが」とでも言って、心の秤がぱたんと傾いてしまうことだってあるのだろう。ふたつに揺れるこころの狭間で、身を任せてしまうことだってきっとできた。でも、そんなことはできなかった。お互いに傷つけたくない人がいるから。それに、相手を失ってしまいたくないから。


「元気でいてほしい。
ちゃんと睡眠をとってほしい。
野菜を食べてほしい。」

『大豆田とわ子と3人の元夫』より



最近まで観ていたドラマのなかで、別れた夫に対してヒロインがその人を表した言葉がこれだった。はじめてこの言葉を聞いたとき、すぐに浮かんだのがこの人だった。わたしと、幸せになってほしい人ではないのだ。わたしがいないところで元気でいてほしいし、ちゃんと睡眠をとってほしいし、野菜を食べてほしい。交わらない世界線で、幸せでいてほしい。その中に、たまに一友人として自分が存在していたらいい。一緒に幸せを描くには遠すぎるような距離感に。



それは会いたくないという拒絶の意味でも無理に交わりを断ちたいというわけでもない。けれど、もうわたしが幸せにすることはできないのだ。だってわたしにもこの人にも、大事な存在は別にいるから。


人と人の関係を表すラベルは時に乱暴だ。
この人は「友人」と括るには勿体無いし、「知人」よりは近いし「元恋人」だと曰く付きっぽい。「セフレ」な訳では断じてないし( この均衡を保つために、手にすら触れないようにしているというのに ) 「好きな人」や「大切な人」も語弊がある。敢えて「彼」という三人称で例えないのも、わたしにとって「彼」と言い表したい存在は別にいるからだ。

という話で思い出したけれど、恋人のことを「彼氏」と言い表すのも実はすこし苦手かもしれない。いつも「彼」と表記するときは、ルビが振られる訳でもないのに“my boyfriend”ではなくて純粋に1番近しいところにいる“he”のつもりで綴ってしまう。だれかに伝わるわけなど無いのに。


話が逸れた。

なにが言いたいかというと、ラベリングできない関係だけど、それでいいしそれがいいと思ったということ。すべてに名前がある訳ではないから。括れないものがあったっていい。それが大事なら、無理矢理どうにかして既存の箱に詰め込むのが正しいとは限らない。


この人が撮ったわたしの写真が、フィルムカメラにまだ現像されずに残っている。わたしは一体どんな顔して写っているのだろうか。


追伸。
たまにはあなたが書く文章もそろそろ読みたいです。叶うことなら、あなたの感じたラベリングできないあの夜のこととかね。なんてね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?