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村崎百郎の本を読んで

村崎百郎とは

村崎百郎「鬼畜のススメ」

村崎百郎とは、紫の頭巾にギョロリとした一つ目、シベリア出身の工作員のことである。90年代「鬼畜系」・「電波系」という言葉の生みの親だ。サブカルが好きな人なら一度は耳にしたことがあるかもしれない。彼の代表的ライフワークは集積所の「ゴミ漁り」。戦利品のゴミを通して、その人間の思想や精神、性活までもをファイリングしていた。

そんな彼のもうひとつの姿は、編集者「黒田一郎」。村崎百郎として活動する以前は出版社の「ペヨトル工房」にて編集者を勤めていた。電波系の流れでアルトーやバロウズの話になると、途端に編集者の顔になって語り出すペヨトルの黒田さん、として有名だった。彼の高校時代を知る小説家の京極夏彦さんによると、黒田一郎と村崎百郎は「まるでまったくの別人」であるそうだ。

2010年に自身に粘着する精神異常者に刺殺されて、彼は死んだ。実に衝撃的な死である。ちょうどそれの少し前、2ちゃんねるをはじめ剥き出しの悪意がそのまま出てくるメディアがインターネットに台頭してきた。それらはすごく彼に物書きをさせ辛くしていたという。

VTuber的な「キチガイのバ美肉」

一般人として世に溶け込む自分と、キチガイの自分。二重人格ともいえるキャラクターの使い分けをしていた村崎百郎。親にはキチガイを隠し、生涯のベストパートナーである森園みるくさんとの結婚の報告をしたというエピソードがとても好きだ。自分の子どもがキチガイでは親がかわいそうだ、と語っていたようで、素の優しさがキラリと光る。

彼が村崎百郎として表に出てくる際は、まるで二重人格者のそれのように「フーッ……フーッ……」と息を荒げながらキャラクターを降ろしてきていたそうだ。あの頭巾は、おぞましいものを抑え込む制御装置のようなもので、混ざっている状態のものを分離して鬼畜の部分を存分に出せたのだろう。

これは今でいうVtuberの先駆ともいえるのではないだろうか。仮の姿の自分だから言えることや、やれることがある。いわば、「キチガイのバ美肉」である。

誰もが持つ「妄想」受信

あー今、隣の人殴ったらどうなるんだろう。あー今、「ま◯こーー!!!!!!」と大声出したらどうなるんだろう。誰しも一度はこういった妄想をすることがあるのではないだろうか。それが村崎のいう脳内電波による妄想受信なのかもしれない。

彼の文章を読めばわかるのだが、彼は自分のキチガイをいたって論理的に評している。だからこそ、その苦しみを妄想と幻想の文学として表現せざるおえなかったのだろう。それを自覚せず、混ざりながらも普通の顔をして暮らしている人間の方が恐ろしいのではないか。

サブカルや逆張りの嘲笑

ここまで、冒頭の説明だけの印象では「また90年代サブカルの懐古主義的な話をされるのか」と思っている方もいるだろう。YouTuberやメジャーな漫画・アニメ、アイドルが再評価される現在、サブカルは悪、逆張りはダサいと考える若者も多いと思う。たしかに自分自身、厨二病だった時、エログロサブカルに精通している自分は「特殊な存在だ」とアイデンティティを感じていて非常にイタい奴だったと思う。

実は村崎百郎は真逆だ。ゲス妄想はその精神世界だけにあれば良いと一貫して主張していた。現在、表現の自由などが論じられるが、そのアンチテーゼのバランス感覚の啓蒙を当時から行なっている。あのオカルトブームの時代もむしろビビっていて、神や幽霊についても「自分がキチガイだから見えるだけ」と言っていたそうだ。むしろ、「世の中、俺と同じキチガイなくせに、そうだと言わない奴が多すぎる」のだ。今はそのバランスが取れないまま、自覚なくネットやSNSを使っている人が多すぎるのではないかと思う。

現実がゲスな妄想を凌駕する現在

最近も首なし遺体の発見や母親を殺し食らった犯人、障がい者の兄弟による6歳児殺人など、猟奇的な殺人事件が目立っている。身近なところでも、歌舞伎町のトー横キッズや大久保公園の立ちんぼ、ホス狂いとホスト、処方薬の乱用といった「ゲスな妄想を凌駕する現実」がすぐそばにある。

村崎の活躍した90年代前半頃まではブラックなものを笑い飛ばすような楽しさがあった。しかし、現在は単にネガティブな思いがだだ漏れになっており、まさに神にも仏にも手を合わさないような地獄を生きていると言っても過言ではない。

さらに、昔は綺麗事を言ったり、自分の正義をかざして他人を殴る人、マスメディア、そういったもののほうがキチガイであった。一方SNSで他人を裁くことが行われる今の時代、本当のキチガイとはどちら側なのだろうか。

村崎百郎は実は身体を張って突っ張ってしまう強情さがあって、誰かが刺しに来たら率先して間に入るような奴だったという。ある種、ヤバい衝動はいい方向に使えよ、というキチガイの防波堤となっていたのかもしれない。理性の側から村崎百郎を揶揄していたけれど、彼の向こう側には本当にヤバい人たちがいる。インテリ側にいる人たちこそ、自分の手を汚すことなく、彼のことを見て、何となく向こう側のことがわかったような気でいたのかもしれない。そんな、体を張っていた村崎百郎が死んで「やっぱり世の中、狂ってますよね」という話だけで収めてしまうのは違う。

キチガイはどこへ向かうのか

村崎の論ずるキチガイどもは「良い人」に見られたい、他人に馬鹿にされたくないといった心など持たない。それこそびくびくした優等生思考と行動を生み、病んだ心を育ててしまう。自己の狂気を自覚し、それを楽しむ余裕がある方が健全なのだ。

「糞の匂いの中には、最も人間的な温かさと醜さが同居してきて心地良い」こんな文章は本当のキチガイには書けない。村崎は本当は人間を愛していたからこそ、苦しみを持っていたのだと思う。

どの街にも、どの夜にも、どの時間にも、
そして誰の中にも「村崎百郎(キチガイ)」は存在する。「キチガイの将来」を考えることはあなたの将来を考えることなのだ。

参考文献など

アスペクト「村崎百郎の本」
村崎百郎「鬼畜のススメ」
根本敬、村崎百郎「電波系」

2022/08/24 WED 19:00 - 24:00
DOMMUNE「鬼畜系カルチャー大検証!」村崎百郎が蘇る!

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