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人のつらさで自分もつらくなる醜悪さ

俺にはよくない癖がある。他人の悩みやつらさで、自分までつらくなるのだ。人の悩みを聞いて自分のことのように気分が悪くなるのである。

一般に、そういった特性は思いやりや想像力といった文脈で語られることが多い。他者に対する共感性が強く、相手の気持ちを強く受け取りすぎてしまうがゆえにつらくなるというふうに。

しかし本当にそうだろうか。いや、そうではない。よくよく考えてみれば、そこにあるのは他者に対する優しさなどではなく、完全なる自己中心性だということがわかるだろう。


まず、俺は相手のことを見ていない。本当に相手のことを考えているのならば、相手がどう思うのかを重視するはずだ。相手がこれからどうなってゆくのかを見るはずだろう。そして相手の感じ方や考え方を尊重する。

しかし、俺は相手がどうするかより、自分がどう思うかを優先している。常に俺は俺はで相手の気持ちを無視している。それは誰がどう見ても優しさではない。

しかも、俺が感じている相手の「つらさ」は本物ではない。俺が勝手に妄想しているだけだ。「相手はきっとこう感じているに違いない、それはきっとつらいに違いない」と勝手に判断している。つまり決めつけだ。相手の気持ちを無視し、俺の独断と偏見で独り決めにしてしまう。それは相手を思っているようで、誰も大切にしていない、傲慢な態度である。

以上の理由から、他人のつらさで自分もつらくなる俺という人間は、最低だと思う。だれかれ構わず攻撃する凶暴な人間より、他人の迷惑を顧みない横暴な人物より、なおたちが悪い究極の自己中心だと思う。なぜなら、その欠点は、一見して醜悪な欠点だとわからないからだ。

こういう自分を意識するたび自分って醜いなあと思ってしまう。

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