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【欲望と人間-自己の不安をどう解決するか】2

【欲望と人間-自己の不安をどう解決するか】2

(煩悩と無心)
むしろ私は、欲望を追求する自由ができて来た為に、ある意味で自分の自由を、どう使うかという事が解らなくなってしまって、そこでまた、苦しみも出てくるんじゃないかと思いますね。
あのねー、私の診た患者さんの例ですが、静かな、もう無心の境地にならなければいけないと考えている人がいるんです。無心にならなければ、ならなければといつも思っている訳で、だから、ちょっとした猫の声とか、カチャンとした音でも、しょっちゅう気になるんですね。こんな音も聞こえた、これはいけない、と気にするのです。そうやる結果、益々頭の中がクシャクシャして心の平安が乱される事になってしまう訳ですね。
一寸聞くと、無心の状態を保つ為に、非常に努力しているから、素晴らしい精神的な苦業だと思うのですが、実はやっぱり、自分の思った通りにしたいという心がある訳です。

(自分を正しく見る)
―四諦(苦集滅道)、八正道(正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定)―私はね、現在において、自分自身の今の苦しみというのを、苦しみの存在であるという事をまず知るという事―。自分の症状を無くそうという事ばかり考えているが、そうじゃなくて、無くそうとする姿を含めて、自分の執着している姿をそのままみるという事、それと、何とかかんとかしながら、それを否定しよう、無くそうと思っても、中々無くならない。その情けなさをハッキリ感じるー。
そういう事をすべて、つぶらに、つぶらかに、しみじみと本当に自分でよく見て感じる事が大事な事だと思うんです。親鸞聖人が、愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑しと仰ったように、その自分の姿を見ればもう救われない、本当に色々やってみてもどうにも仕様が無い。自分の力では救う術も無い身である事を知れと善導大師は仰っている。この己れという事は政権だと私は思うんです。
特に、私は煩悩に満ち、色々と苦しんでいる自分の姿が自分に見えるという事は、一体どういう事か。
そうです。それは私はやはり仏の御回向だと思うのです。
私は患者さんに説教をする訳じゃありませんが、「あなたのこんな苦しいのが、その姿が見られるというのはどういう事でしょう。こうやって苦しみながら、しかも、ズーッと生きているのではないでしょうか。その苦しみの中でもあなたは、何かに支えられているんじゃないでしょうか。しかも、この苦しみは、あなたも私もしている事なんだ。ある意味で全人類のものなんじゃないでしょうか」と問を発するのです。そういう事で、我々がこういう我々の姿を見さしめられている、その事を感じ始めて頂くという事になるのです。だけど僕が首根っこを捕まえて、どうだ、どうだとやったって無駄な事なんですよ。ご自分が、なるほどと感じていらっしゃる内に、その正見の知恵が、段々段々深くなっていくんですね。
そうしますとね、そこにね、やっぱり知恵の徳とでも云いますか、同じ苦しみをしていながら、ちょっと違ったものが出て来ますね。要するに、色々なゴタゴタした問題はそのままにしておいて、とにかくその中にありながら、自分の生きる事、その中でやるべき事を素直に少しずつやって行くという風な態度が生まれて来る訳ですね。
私、医師として当然の事ですが患者さんの苦しみを軽くしたいという気持ちがあるんですが、患者さんと対していて、もう私の方が万策尽きたと思う時があるんですね。そういう時には、もう本当に自分の能力の限界ですし、どうにも仕様が無い、往生してしまうのです。その間、10分でも20分でも私自身がもう、念仏しているんです。
私の体験ですけど、そうすると面白い事に、患者さんの方から、「先生、こうしましょうよ」という風に開かれて来るんです。つまり、極端に云いますと、仏教の言葉で云えば、本願力のもよおしと云われる事でしょうが、私自身、一人の時にも感じない事ではありませんがね。強烈に感じるのは、患者さん、つまり、人と人との間に湧き起こる時ですね。その中で、「共に」という感じがある時に強く感じるような気がしますね。
ですから、親鸞聖人が云われたように、いわゆる信心なり、念仏というものは、これ仏のお力、お命なんですねー。それが我々の中に、その通りに本当に湧き出て来る。つまり、大信心は仏性なりと云われましたが、まさにそういうものが、苦しみや悩んでいる我々の中に生き生きと、ジッと湧き上がって来るものだと私は感じますね。
はい。常に、その仏の働きが行われているのだという事を教えられますね。
ですから、私、患者さんから、「先生、治してくれ」って云われて、「私は治せません。あなたの中にあるものが治すんですよ。ただ出来るだけのお手伝いはしますが」と、そう云うんですよ。有難い事に、こういう仕事をしている時、いつも私が感じるのは、すべての人の中に仏力が、本願力が本当にいつも働いているっていう事に感謝出来る事です。云うならば、そこに患者さんの仏性が開発される、仏の力によってね。このような事を体験させられる事は、何と云うか、こういう仕事をしている喜びですね。
治療の何だかんだと云いますけどね、私はただゴタゴタしたものを整理して、そこにあるものを片付けたり、ハッキリ患者さんに見えるように、見やすいように整理する、整理係みたいなもんなんですよ。
質問:(解りました。仮に煩悩という言葉を使ったとすると、何かあって見えなくなっているのを、ちょっとどけてやると、例えば、仏の光というものが、ちゃんと眼に見えるようになる。そうすると、ああ何だろうと行ってみて行く内に、段々本物が見えるようになるという事ですかね。)
はい。もう一つ付け加えさせて貰えば、人間が煩悩を持っているからこそ、苦しみ悩みを種にして、縁によって何か自分の中に、自分を超えたもっと大きな力、それで本当に支えられ、生かされている自分を感じる事が出来るとすればね、私は人間煩悩を喜ぶべしと思うんですがね。(笑)

(共に生きる)
質問:(仏教というと、自我を捨てて欲望を無くする修行が仏教の修行だと云われておりますが、そういう云い方には危険があるような気がするのですが、如何でしょうか?・・自我を捨てちゃいけない訳ですね?・・一度、否定する事によって大きな生命に満たされる訳です。ですから今度、自分本位の、たった50年か30年の経験で憶断―憶測して判断―して生きるのではなく、大きな生命のもよおしによって生きて行くという立場の転換があるのではないでしょうか?)
その小さい自我ですとねー、いつも孤独ですし、疎外されていますし、いつも不安ですね。本当の自我を支え、生かしている、大きな生命と云いますか、そういったものに触れませんと、この自我は、生きた力強いものにはなりません。
私たちの自我は、互いに孤立してバラバラなものなんですよ。脆弱な、頼りにならないものだと思います。こうした自我を絶対化して、幾ら追求しても本当の安心は無いのでは無いでしょうか。この自我に本当に力を与えるのは何かと云う、基本的な、大きなものを感じ、それに繋がらない限り、非常に弱い性格のものだと思います。

質問:(お釈迦様が亡くなられる前に自分が死んでも不安がる事はないと、自らをその灯とし、法をその灯としろと云われた。それは、自灯明だけではなくて、更に自灯明と云っているので、孤立した自分という意味では毛頭ない訳ですね? ないです。それを見る、見抜く目を正見と云うのではないでしょうか? 自分が孤立していないのと、繋がっている大きな生命の中の自分という事を正しく見るという事ですか? そうすると、今度はその立場から日常すべてのものが正見出来る、あるがままに正しく見る事が出来るのです。)
いつも、すべての人が共に生かされているという、本当の意味における何か、連帯感、感謝といったものが感じられると、そこでは非常に安息した、安定した、いわゆる安心の気持ちが出て来ると思うのです。ですから色んな事があっても、兎に角、それは、小変ですね、大変じゃないから。つまり、一番深い処で大きなものに生かされているという安心があれば、その他の事はすべて小変になる訳ですよ。

質問:(私は自然科学をやっていますので、正見というのは、科学的な目で物事を見る事だと思っておったのですが、科学は正見で無く局部見みたいな事が多いですね。 人間が大自然と共に、人間ばかりでなく、木も山も魚も獣もですね、一切の存在と一つに生きている。一つの生命に繋がっているという、それを見る事が出来る事が政権でしょうね?)
そして私は逆に、それを見るという事の為に、人間として生まれて来たんじゃないかと思いますね。
大脳なんて云うのは、そういう事の為に寧ろ使われるべきものじゃないかと思うのですね。私は、今、患者さんたちを診ていましてね、本当に安心したい、本当に安らかな気持ちになりたい、本当の安定を得たいというのが人間の一番の深い欲望だと思うんです。
質問:(目の前の欲望、利益のからまったようなのが、幾ら実現しても、その背景にある安心も得られない限りは、大きな欲望は達せられないと考えて良い訳ですね?)
本当の安定というのは、確かに仏の生命を感じるという所で、ですね、結局、自分が生かされている。本当に人間に生まれて、生かされていると知らされ、それによって生きて行くという、この喜びと言えるのではないでしょうかね。(おわり)
(欲望と人間―自己の不安をどう解決するか」近藤章久(座談会) 昭和50年12月14日)

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