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精神医学と宗教 近藤章久講演 1964/3/30 3

精神医学と宗教 近藤章久講演 1964/3/30 3

ということは、結局、神と人間との関係は、正に幼児と父との関係の投影に外ならないことになります。とすれば、神は一つ の幻想にしか過ぎません。 従って、その神を崇拝する宗教も一つの幻想であり、人間の理性がまだ弱く未発達である時の産物にしか過ぎないことになります。人間の理性が発達し、強大になるにつれ、 人間は幻想によらないで、以前は宗教によってのみ得た種々の利得を、自分の理性によって克ち得て行くことが可能であるということになります。これは、神の否定であり、従ってキリスト教の否定と受取られるのは、当然のことであります。フロイドの学説がうけた様々な非難の原因は小児性欲その他にも多いのですが、これも、その一つであることも理解出来ます。このようなフロイドの批判や考え方は、一見極端に感じられるかも知れませんが、しかし、そのような批判や考え方は、実際に彼が観察した事実と関連があることは否定出来ません。
例えば、キリスト教に於いて、性は肉の営みと解されます。肉の営みは罪であります。又、情欲を抱いて女を見るものは心の中で既に姦淫の罪を犯したものであるとされます。そうしますと、極端に言えば、ちょっとでも女性を見て、気持ちが動くともう罪を起したことになる。夫婦関係も、それが快楽であれば肉の営みとなって罪となる。そうすると、異性関係に於いても、戦々競々としていなくてはならない。しかし映画なんかで見られる通り、外国でも色々と不倫なこともあるし、性的な挑發も随分あるのですが、その場合心の深いところで、罪の意識が動いているのです。言い換えれば、性的なことを楽しむ一面に於いて、そういう罪悪感が抑圧されているのです。
一方に於いて、性的な本能、性的快楽を求める気持ちがある。だから、戒律に従い、道徳的に生活しようとすると、今度は色情を抑圧しなくてはならない。その結果、表面的には性的な興味というものを恰かも持っていないかのような顔をしなければならない。しかし、心に色情を持っているものはこれ又罪である。どちらにしても矛盾を生じる。このような状態を見る時に、そこに宗教的戒律――世俗的理論となったもの――が、人間の心の健全な発達を阻害していることを気付かされる。こういう状態から考える時に、フロイドの宗教に対する批判のよって来るところがよりよく理解されることと思います。

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このようなフロイドの見解に対して、ユングはどんな風に考えるでしょうか。
ユングもフロイドと同様に、無意識の働きを重要視しますが、フロイドが考えるような、リビドーとか、上位自我だけを無意識の内容とは考えません。ユングは、無意識は要するに、私達が〈知らないもの〉であり、それは、ただ私達一人一人の個人的な無意識ばかりでなく、長い人類の全体の歴史的な経験の中で得たものもあって、それが私達個人の心の中にも遺伝されていると考えます。これを集合的無意識と呼ぶことは、前に申し上げました。ユングの観察によりますと、私達の心は、この無意識全体によって、いつもゆり動かされ、圧倒される危険――心の危険と彼は呼びましたが――にさらされています。それに圧倒されたり、圧倒されそうになった時に、狂気や神経症が現れて来るのであります。私達の理性はこれに対して、そう強力ではありません。
未開人は、この、うっかりすると、圧倒される力に対して、タブーとか、呪術的な儀式を使って防いだのです。その意味でタブーとか、呪術とかは、それによって心の危険――その分列や喪失が防がれる〈象徴〉であり、そして象徴は、一面には無意識の中から生まれ、他面には意識の働きによって生じ、ちょうど、意識と無意識の協力のもとに、心の安定を保つために生まれたものであるとユングは考えます。
こういう象徴は、未開人の場合だけに必要なものではありません。私達も未開人と同じ様に、無意識の大きな力に圧倒される危険があります。危険だけではなく、事実、戦争に見られるような狂気的な行為を私達はしております。私達が誇る理性が、強大であるとすれば、一体どうして、こういう残虐なことを止め得ないのでしょうか。それは、集合的無意識が我々を摑むからです。このような危険から、私達が身を守るための象徴としての意味をもつものを、宗教が与えると彼は考えます。
〈最近の二千年間においては、キリスト教の制度が、これらもろもろの超自然的な力からの影響と人間のあいだに立って、人間を保護する役割を引受けた〉と彼は言います。キリスト教は、人間の外部に存在する客観的な、神的な存在を教え、その存在の力が人間を捉え、支配するとします。それは人間にとって、或る意味で制約であり、人間の意志から独立しているのであります。このことは、象徴というものが、強大な無意識から人間を保護するものですから、それによって人間が心の危機を免がれ得るとすれば、それはやむを得ない制約と考えられるでしょう。
従って、ユングはカトリックの教える様々な儀式――ミサ、懺悔、神の代行者としての僧の意味を重要視します。プロテスタントは、いわゆる合理主義と非神格化の形で、これらの象徴を破棄して、人間を直接に、内的体験の苦悩に直面さすことになったと考えます。勿論これはこれとして、人間の罪や不安に直面させて、厳しい自己批判をさせる意味をもっているので、どちらがいいとか悪いとか言えないことであります。
以上で解りますように、ユングは、無意識のもつ、人間の心を圧倒し去る力に対して、人間の理性はそれほど強力ではないから、キリスト教が、それに対する大きな防波堤の役割を果たしていると考えるわけです。

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フロムは、このようなユングの考え方に対して、人間の力をもっと強調します。彼は、宗教を二つに分けて考えます。一つは権威主義的な宗教であり、もう一つは人間的宗教であります。権威的宗教と彼が呼ぶものの特徴は、第一に、人間の外にあって、人間を支配する絶対的な権力をもった、至高の存在を中心に考えるということでもあります。そして、第二の特徴は、人間がそれに対し、絶対的に服従するということであります。
即ち、絶対的な権力の支配と、それに対する服従が権威的宗教の特徴であります。人間はその支配に対して服従することにより、保護される恩恵を得ますが、同時に、自分の独立と自由を失い、それに服従すればする程、自分の無気力感、劣弱と卑少とを感じるのです。その気持ちを蔽うものは、悲しみと罪悪感であります。
人間的宗教と彼が呼ぶものは、これに反して、人間と人間の能力とを信じます。ここに於いて徳とされるのは、人間の自己実現であり、信仰は、権力者の申し出を信じることでなくて、〈一切〉と一になった自分自身の経験――思惟と感情とにもとづいているのです。従って、この宗教に属するものの持つ気持ちは、力強く、歓喜に溢れているものなのであります。人間的宗教の例として、彼は原始仏教、道教、イザヤ、イエス、ソクラテス、スピノザ、その他原始ユダヤ及びキリスト教、特に神秘主義等をあげています。
フロムに従えば、同じ宗教の中に於いても、この二つの区別がると考えられるのです。
キリスト教に於いても、その初期には、イエスが〈神の国は汝等の裡にあり〉という言葉や、神秘主義者たちの体験が示すように、神は人間自身の高貴な姿でありました。神は人間自身の持つ可能性の最高の象徴であったのです。しかし、それが次第に変化して、貧しきもの、虐げられたものの宗教からローマ帝国の宗教となった頃から、権威的な性格を持ち、神が本来人間のものであった理性と愛と正義を独占し、その唯一の所有者になってしまったのです。精神分析的に言えば、人間は、人間の持つ最高のものを、ことごとく神に投射してしまって、その結果自分自身は空虚になり、卑少になり、罪人になったのです。そして、それらの価値を再び取返して、自分自身のものにするためには、あらためて神に許しを乞い、その恩恵を願うという結果になるのです。
フロイドやユングが指摘したように、人間は確かに弱い存在です。死や、病気や、老いに、何時も脅かされ、無限の宇宙に比べれば、一つの点にしかすぎません。しかし、人間が人間の限界を知ることこそ、人間の知恵であり成熟の本質的な意味であって、色々なものに依存する存在であることを明確に自覚することは、いい気になってその状態に甘えて頼りかかることとは違うのです。
フロイドが批判したのは、実はこのような権威主義的な宗教であり、その限りに於いてフロムはフロイドの批判に賛意を表します。と同時に、ユングが言うような意味での象徴としての宗教は、人間が不安から逃れるために、逃げ込む一つの逃避の手段であり、その結果逆に、それによって拘束され、服従を強制されて、人間は独立と自由を失ってしまうと言うのです。ちょうど、人間が、不安から逃れるために、神経症という方法に訴えて、結局それによって、本来の自分を失って行くのと同じことであります。そういった意味で、彼はユングの考え方に賛成しないのです。
フロムのこのような考え方の根本には、人間が独立と自由を実現し、自分自身に対する愛と、他人に対する関心と尊敬と理解、自他が共に成長して行くことに対する大きな願求を持つことが、人間の〈自己実現〉の重要な要素であるという考え方があるのです。そして、それが精神分析の目標であると共に、宗教も又、このような働きをもつものこそ、真実の宗教であると考えるのです。

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さてここまで、精神医学が心の問題を取扱うことから、精神分析の発展によって、人間自身の解明に至り、それと共に成立した理論をのべました。
しかし、精神分析は実は理論のみではなく、それは治療の実践でもあります。理論と実践はお互いに関連し合って発達して来たものであって、しかも、患者という人間と、治療者という人間が、それぞれの人生の一定期間を共有し、協力して、人間の精神の苦悩からの解放のために、共に生きる体験の場から生じたものであります。このような精神分析の実際面について若干申しあげるのは、後に仏教についてお話することと関連するからであります。精神分析の実際に当たって、治療者に必要な事は、患者に対して開かれた、その言語や身振りや表情による表現のすべてを受け入れ許容する、敏感でありながら、囚われない、ゆったりした広やかな態度であります。それは同時に、自分自身の心の動きに対しても、開いた態度――それを素直に容認し、理解する余裕のある態度を意味します。
患者は、治療者と共にいる場で、自分の心に浮かび、表現を促すものを、気兼ねせずに、自由に、くつろいで、自然に、話の筋道とか、理屈とかを考慮しないで表現することを要請されます。勿論はじめから、そういった態度で表現出来ないのが普通です。何といっても治療者は、他人とも言うべき人間ですし、こうした態度で、物を話すのに馴れているわけではありません。オドオドしたり、不快だったり、何も言葉が出て来なかったり、或いは言った後で、何か本当に言いたかったことを言わなかったような気がして腹が立ったり、或いは言ってしまって恥ずかしい気持ちに襲われたりすることも多いです。
しかし、治療者の助力と促しによって患者は次第にそうしたことにこだわらずに、出来るだけそのままに言うことが出来るようになります。落ち着いた、言葉は少ないかも知れないが、しかし、自分の言うことに充分な関心をもって、静かに聴き入ってくれる治療者の態度によって、少しずつ、恐れや、警戒や、恥や、敵意や、気兼ねが減っていって、自分の感じたり、考えたりしていることを言えるようになります。
勿論、患者は、自分の悩んでいる症状について頭が一杯になって、早く助けてもらいたい気持ちですから、そうしたことばかりを言うのは当然です。しかし、そういうことを言っているうちに、自分の家族や、両親、友人、上役等に対する色々な気持、忘れていた過去の思い出、それにまつわる悲しみや喜び、未来に対する期待や不安、或いは怒りや悔根、憎しみや愛情、夢や空想など様々なものが、流出して来るのを経験します。はじめは全くばらばらで、とりとめもないことのように思えるのですが、回を重ねるに従って、それらが次第に、いくつかの形にまとまって来ることに気付いていきます。しかしそれは、別に形をつけようとして出てくるものではありません。
自分で語り、自分で聞いているうちに、おのずから形を成してくるものなのです。これは自分の心に流れている、潮の流れにも似たものです。それを心の傾向とよびましょう。これに気付くのは、勿論、治療者が、患者の表現しようとするものをはっきり表現できるように助力する努力にもよりますが、結局、患者自身が気付くものであり、感じ、体験するものなのです。
心の傾向は、生まれてから知らないうちにとった心の態度であり、心の習慣であると言えましょう。英語の表現でフレイム・オブ・マインド(a frame of mind)という言葉があります。気持ちとか気分とか訳されていますが、直訳すると心のワクということです。このことは、ワクで心が限られていることを意味するでしょう。習慣的に心が動くということは、同時に習慣がワクとなって動きを限定していると言えます。
従って、心の傾向というのは、或るワクで限られた心のあり方を示すと考えられます。だから心の傾向に気付くということは、ワクで限られた自分の心の事実に気が付くということであり、細かく言えば、自分の心が拘束されているということと、それを拘束しているワクに気が付かされる、即ち照明されるということになります。このことが、フロイドが反復強迫と説明し、サリバンが、パラタキシックな歪みと呼び、ホーナイが神経症的傾向と呼んだものです。
では、こういうことに気付くのは、一体何故だろうか。何がこのような照明を可能にするのだろうかという問題があります。これには、それぞれの立場からの理解がありますが、ここでは、そういう問題を提起するのに止めましょう。ともあれ、このような照明は、患者を導いて、一つには、過去を照らし、自分の心のワクがどのようにして出来て来たか、そして、どれだけ自分の過去の生活を拘束したかを覚らせるようになり、二つには、それが、現在の生活をどういう点で、どれほど拘束しているのかを明らかにさせ、更に三つには、それを継続、維持して行くことが、どれだけの意味をもっているかを考えさせ、更にこのワクが一体自分がそれほど尊重するだけの価値があるのであろうか、という疑問を抱かせるに至ります。言葉でいいますと、甚だ簡単なようですが、これらのことが行われ、経験されるのは、色々な困難――特に抵抗と言われる現象――を通過して行われるものであって、決して容易なものではありません。
しかし、こうした照明が忍耐強く、患者の生き方の隅々まで行われて行くうちに、患者は不思議に、自分自身の中に起こって来る、変化と転回を経験するのです。多くの場合、それは漸進的な変化ですが、しかし、時として急な、劇的な転回である場合もあります。変化や転回は、種々な形や内容、又は表現をとります。
〈雲が晴れたようだ〉〈生きている感じがする〉というような言葉や、〈自分がはっきりして来だした〉〈世界が広くなってきた〉とかいう表現が出てきます。
一方、治療者の、開かれた敏感な心も又、この照明によって照らされるのであります。それまで、患者の心を蔽い、その口から出ていた様々な愛憎や苦悩や不安の表現の受容に慣らされた治療者の耳に、このような照明は、暗を照らす光のように、鮮やかに感受されるのです。そして、その時、治療者は患者と共にこの照明された世界を体験し、共感し、生きるのです。
このような、照明された世界に於ける、患者と治療の共感は、更に患者に敏感に感じられ、現に体験された変化や転回の拡大に役立ち、希望と自信を呼び起こします。
このようにして、自分の心の束縛と、それを束縛していたものに対して認識が深まり、それに対する愛着と盲信が少なくなるにつれて、現実生活に於いても、適切な判断が生まれ、自由な、こだわりのない、自然な活動が出来るのを患者は体験するのであります。(つづく)

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