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「人間とは」 近藤章久 講演 1986年 4

「人間とは」 近藤章久 講演 1986年 4

私は今日は皆さんに、ここでこういう話をしているのに、皆さんにこうして欲しい、ああして欲しいというお説教をしているつもりではありません。人間というものの事実を、人間というもののありのままの姿、その姿を皆さんが私とご一緒にはっきりとみていただきたいと思うのです。私は職業がら自分自身もまた患者の方も、そうした姿をお互いに見合って生きています。私はあなた方に対して、同じ人間として本当に「地獄は一定」の凡夫(ぼんぷ)として、何もあなた方に教えることは、あるいは説くことはありません。皆さんが人間とはこういうものであることに気づかれて、そしてそこにずっと以前に、そのような我々人間のために、予てよりそれを知られて用意された、温かい、広大無辺な慈悲をもった教えがあるということを私は申し上げたいのです。
そういうものをしっかりと身につけている時に、本当に文字通り身読して、そしてその意味を皆さんが考えられた時に、それで自ら大変な難しい修業をやる、ということではなくて、易行と申しますか易しいやり方です。何処でも何時でもどなたでも出来ることです。それを私はあなた方に可能ではないかと、せめて問いかけるということを致したいのです。
今、現代はいろいろな意味で自我を主張する時代であります。私の家のすぐそばに隣の家を売りまして新しい家が建ちました。障壁が出来ました。ちょうど障壁ぎりぎりに家が建っているんです。そうしますと、雪が降りますと私の家にドタンと落ちてくるわけです。隣の方は真に自己主張の強い、自我主張の強い、実に現代的な、非常に現代にふさわしい立派な生き方をされている人だと思います。しかし皆が全部それを実行された時に、一体この世の中はどういうふうになるでしょうか。ほんとうに闘争という嫌な言葉ですけれども、そういうことになるのではないでしょうか。
もっとこれを、目を転じてこの小さいところではなくて国際的に見ましても、国と国の間がどのような関係になるかと考えた時に、私は核という全人類を絶滅するものがあるだけに、ある国の自我、このエゴが一番強くなって人類絶滅の武器を使った時に、この闘争本能はどういうことをするか、人類をどういう方向に導いていくのか、私は人類絶滅へ導いていくと思います。それだけに私はもう一度ここに人間自身の持っている非常に強い無意識にある自我と、自我を主張する強い我欲、強い我執、そういうものの力を本当に正しくみて、全世界の人々がそれを自覚して、そして自分自身の本当の意味の生き方ということを考え、どうしたらそういう破滅からまぬがれるかということを考える時期がきていると思います。
その意味で、今、本当の意味での人間を越えた大きな本願の力というものを、その教えをかえりみたいのです。そして本当にそれを身得したいのです。易しい行いですけれども、それを皆さんが本当に気がついておやりになるということが、むしろ今や末法(まつぽう)の世であるだけに、今、仏によってうながされているのではないかと感じるのです。皆さん、いろいろなお考えがあるでしょうけれど、私は人間というものは、決して見かけのような素晴らしいものではなくて、心の中にむしろ逆のものを持っている、むしろ自己中心で、この本当に闘争的な存在であるということを知り、一方に人間をその状態から救う道がまた開かれているということを、皆さんに考えていただきたいと思います。
非常に短い間で至らない話でしたが、私はこのように思っております。しかしわたしが最後に申し上げたい言葉があります。私達の確かに自我心と申しますか、そういうものは強いのです。まったく強くて自分自身どうにもなりません。けれどもこの親鸞聖人が書かれた和讃(わさん)の一節を読み上げますが、これは力弱い私達に非常に力強い思いをさしていただけるものだと思います。ご存知だと思うのですが
願力(がんりき)無窮(むぐう)にましませば
罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)もおもからず
仏(ふつ)智(ち)無辺(むへん)にましませば
散乱(さんらん)放逸(ほういつ)もすてられず
どのように散乱放逸であろうとも、それを越えて、願力は無窮にして仏智は無辺であります。そういうものを本当にかたく信ずることは、「いずれの行(ぎょう)もおよびがたき身」「地獄は一定みかぞかし」といわれるような我々の存在を、本当に救っていただける道であると思います。
よろずのこと みなもて そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします(『歎異抄』)
我々は自分自身の中に何ひとつとして頼るものがありません。だけれども「ただ念仏のみぞまことにておはします。」は今思い出しましたのですが、北陸のある会に招かれまして、私がお話をしたことがあります。雪の深い時で、十一月に山の中や谷の底の村から出て寺にこられた方たちです。女の方が多かった。皆さんふしくれだった指をして、日頃の労働が思われました。それを拝見して私はそこで講演を頼まれたのですけれども、拝見しただけに講演が出来ないのです。唯(ただ)こういうことだけをいえたのです。皆さんは本当に山奥深いところでご苦労なすったでしょう。その中で一生懸命に夫を助け、子供を育てられました。しかし夫はあなたを裏切らなかったでしょうか。あなたは子供に裏切られなかったでしょうか、とお聞きしました。そうしたら皆さんはみんな「そうだ」頭を下げられました。その時、私は申し上げました。でもたった一つ、あなた方を裏切らなかったものがあるでしょう。こう申しましたら皆さんがいっせいに声を揃えて「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」とおっしゃいました。
ここまで信心が徹底しておられたからこそ、その信心の強さを物語る毛(け)綱(づな)がいまでも東本願寺にあります。あの信徒の女の方が自らの毛髪を切り、その毛をよって綱を作り、山谷から大木を引き出したのです。南無阿弥陀仏だけは本当であります。「ただ念仏のみぞまことにておはします」という親鸞聖人のそのお気持ちをそのまま、今、昭和の現代でも感じておられる方があるということを、これを私は皆様にお告げしておきたいと思います。これをどのようにとられるかは皆様のそれぞれのお考えによります。私はそれに直面し、ただただ念仏を共にお唱えするよりほかありませんでした。そして共に念仏に生かされる喜びを、滂沱(ぼうだ)としてでる涙と共に感じざるを得ませんでした。そういう人が生きておられます。この日本に。それが誰にもしられないところでいっぱい生きていらっしゃる。素晴らしいと思います。
願わくば一隅を照らすこの念仏がさらに世界の平和を導くようにと、私は心からお願いするのです。もう私も七十五歳です。ですからそんなに長いこと生きていられません。私はそれよりも、これからくる若い命を思います。若い生命を考えます。その人達が健やかにあれと願うものです。それだけにどうかこの念仏の教えが本当に若い人達を生かし、その人達が人間の利己中心主義を越えて、素晴らしい世界平和へと導かれることを心から願って私の話を終わらせていただきます。(おわり)

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