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講演【老と死を考える】3

講演【老と死を考える】3
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 先ほど例を挙げましたけれど、小荘の実業家であって、何兆という程のお金もすぐ出せる方でも、幾らお金を持っても自分の本当の使命感というか、本当に生きている意味の充足感というものが無い限りは、ここに不安が生じます。それを誤魔化すのに色々楽しみを求めているけれど、その楽しみはただそれを覆うだけの、束の間の事に過ぎない。そういうものが永続出来ない。或いは成功して立派な事があっても、1時間毎に不安になって起きざるを得ない。ウィスキーを幾ら呑んでもどうにもならない。こういう事は、この人に何かお金とか、事業の成功以外にもっと大事な事があるという事を考えせしめるチャンスになっていると思うのです。だからその方々に私はそう云う訳です。「今、あなたはとても良い事だ。何兆お金を持って買えない事があるという事を悟った事だし、知り始めた事だし、そういう事を考えてみてはどうでしょうか」と。如何に仕事に成功しても、そこに不安があるという事は、何故不安があるかという事を考える良いチャンスではなかろうかと。もっともっと、人間の根本的な安心を得る道というのを考えてみてはどうだろうか。生命を失うという事を恐がっている死というものはどういう事なのか、どういう意味を持つか。それを考えてみたらどうだろうか。そういうような事を、私は云ってみたんです。
 今は与えられた題「老と死」に、私は「病」を入れましたけれど、これは本当に病気をした人でなければ解らない苦しみがあるのですよ。歳を取ってみなければ解らない哀しみと不安があるのですよ。死に面しなければどうしても解らないものがあるのです。
 多くの若い方々にとっては、まだまだ私の云っている事は、向こうの、向こうの東京から富士山の頂上を見るような感じしかしないと思います。けれどあなた方は歩いて、歩いて富士山の麗に行き、そして富士山に接する事があるでしょう。そうした時に初めて、こういった意味を考えて、自分の一生を振り返り、そしてその意味を思い、そこにおいてどんなに自分が愚かな事に一生懸命になり、或いはつまらない事に嘆き、苦しんでいたかという事を考えて、一つの夢から醒める思いをする事も出来るだろうと思います。
 若い方は、確かに若さをいつまでも保って行きたい、いつまでも生きていたい、年を取らないで生きていたい。この気持ち、良く解ります。それは先ほども言ったように出来ない相談なのです。しかし希望として云える事は、年を取ってみないと解らない深い味わいというものもあるという事。これを私は念を押しておきたい。苦しんだ者でないと解らない。そこに大きな深い感動もあるという事。
 総てを厭わないで、すべてを嫌わないで「如」から来生した自分として「如来」として、自分自身を考え、そしていつか「如去」として、この世を去って本来の故郷に還る。そういう自分の存在を考える時に、「老病死」の苦が逆に人生の豊かさと深さと、そして人生の尊さと、同時に自分の愚かさと、自分の我欲と我見と我執というようなものの愚かさを、感じざるを得ない時が来るであろうと、そしてそれを感じてそれに懺悟する時に非常に晴々とした如去に至る道が開けて来るだろうという事を、年寄りとして若い方にお告げしたいと思います。
 中年の方は丁度、分水嶺にあられるから若い事も解るし、年寄りの云う事もある程度解ると思う。しかし中年こそまさに人生の後半を本当に人生の前半の経験によって充実すべき時期であろうかと思います。自分の前半が苦しかったり、辛かったりする事で涙をしたり、人知れない胸の痛みを感じたりする事が何遍かあったでしょう。けれどその本当の意味を、自分の生きている意味として受け取り、たじろがずにそれを受け取って行く時に、初めて充実した後半生が開いて行くのだと思います。
 私の話はこれで終わりますが、私の云い足りない事は、又ご質問などによって応えたいと思います。
 失礼致しました。有難う御座いました。
 考えるという事は、私が考えるとかいう事ではないのです。皆さんも考えるという事です。感想でも、感じた事でも、解らない事でも何でも良い。自分で考えた事自分で感じた事、そういう事を発表して下さい。
 私が一番尊重するのは、これは死にも関係しますが、最近自分の周りに死という事を経験しないとピンと来ないのですが、私のように感じますと、全く明日は解らない。いや、次の瞬間が解らない。そうしますと、ここに一緒に居るという事が、類に稀な機会であるという事です。又再び与えられないという事かも知れないという事なんです。
 惧生縁、難しい言葉のようですが難しくはないのです。たまたま一緒に生きている縁。本当にそういう事が面白いのですよ。例えば会社で、自分の部下があり長がある。自分の同僚が居る。そういう事は当たり前と云えば当たり前だけれど、何億という人間が居て、たまたまどこかの組織に入って、たまたまそういう人が居て、昭和何年という時に生きていて、この瞬間に共にある。今、ここに一緒に居る。この事は並々ならぬ事です。その縁を有難く思って、その縁を生かして行くという事です。それが大事だと思うのです。
 星の数ほどある男の中で、星の数ほどある女の中で結ばれる縁というのは、非常に貴重なものです。稀な縁です。それはある時に共に生きていなければ結ばれない。この惧生縁というのは非常に大事な事です。皆さんの頭の中に入れておいて頂きたいと思います。八百屋さんで大根一本買う時でも、これは惧生縁だなと思うと大根一本がとても楽しく持って帰れますよ。
 そういう意味で、それを喜ぶその気持ち、私の友人で脳性麻痺の子を持った人が居ました。その人は秀才で、九州大学でプロフェッサーをしておりましたが、その人は研究ばかりしておりました。ところが奥さんは脳性麻痺の子供の為に、昼夜24時間献身的にやって行く態度を見て打たれたのです。そして叶わないと思ってしまったのです。自分が研究するより、もっと激しい熱烈な事でやっている。それが生命に関する事だ。そういう事で、奥さんは脳性麻痺の会の会長をやるという事になったので、九州大学のプロフェッサーを辞めまして、東京の私立大学のプロフェッサーになって来て、一生懸命に助力をしてやっていました。それも又亡くなりました。私は良い友人を段々失くして行くので、本当に淋しくなっているのです。そういう話をしみじみ聞かせてくれました。それからがみんな私の心に入っているのです。
 「惧生」、自分に与えられた子供、それは並々な事ではないのです。そこに大きな意味のある事を考える。夫婦の間でも、親子の間でも、同僚の間でもそうです。そう思ってくれると、惧生縁の意味は、本当に大きな意味を持つと思います。私は皆さんと一緒に惧生縁の有難さを改めて頭を下げて感じる訳です。(つづく)

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