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【欲望と人間-自己の不安をどう解決するか】1

次は、これです。「不安」の話です。

【欲望と人間-自己の不安をどう解決するか】1

(現代人の悩み)
特に戦後、何か色々な人間の欲望というものを充足する事だけに目が向けられているように思います。ですから、自分の欲望が充足されないというような事が問題になり、自分の欲求しているものが満足しないので、そこで、色々と悩むという風なもの、まあ、単純に云えば、そういう形になっておりますね。
例えば、人間には睡眠欲というのも御座いますし、食欲、性欲など色々な欲望があります。しかし、私の処へ、寝られないので困る、食欲が無いので困るとか、つまり、人間にとって、欲望が無い、無くなってしまう事は、いわゆる健康じゃないという事になる訳です。欲望が有るという事は逆に健康だという事になる訳です。
ところが、現代の人々の問題は、こうした欲望の追求を何か人生の目的みたいに考えているところがあるんじゃないかと私は思うのです。ですからその欲望というものを、どうしても充足したい、充足しなければ嫌だ、絶対にやるんだという事になって行き、追求、執着する事になり、満たされなかったら、人生意味が無いという風になるのだと思うんです。結局、欲望の安定だけを目標にした場合は、それが満たされないと、もう人生の一大事だ、俺は駄目だとか、自殺しかねないまでも、駄目だという劣等感を持って、世の中を真っ直ぐ行けない。それで苦しんだり、悩んだりするという事になりますね。
私は欲望自体は、人間が生きる事と相即して現れたものであって、まさにそれこそ生きるという事の一つの現れだと思います。しかしそれだからといって、それが目的になるかどうかは疑問だと思うのです。

(隠された欲望 固定概念)
煩悩というのは煩い悩むという事ですけどね、例えば、つい最近の事ですが、私の処へ、電車に乗り、ドアが閉まりますと、居ても立っても居られないほどの不安になる。心臓はドキドキして来るし、どうも息詰まるような、色々な身体的なものが出て来て苦しんでいる方がみえましてね。
これも悩み苦しんでいる姿ですけれどね、それでそういう風な事は嫌だと逃げ出す訳ですが、逃げてしまうとー電車に乗らないとー、勤め先に通う事が出来ません。そこでどうして良いかわからないっていう患者さんがおりましたが・・。
人間というのは、何かどこかで安定を得たいという気持ちがある訳ですね。例えば、今の人を考えますと、狭い電車のような所へ入りますと、降りようと思っても、次の駅まで降りられないので、自由を拘束された、自分の思ったように出来ない。それが色々と聞いてみますと、とてもたまらないと、こういう訳です。
これは狭い所に入ったからという形にはなっていますが、気持ち、心から云いますと、ご自分の中にどんな状況にあっても、自分の自由に、勝手に、思った通りにしたい。そうしなければ自分は安心安定出来ない。つまり、全部コントロールする力を自分が持っていないと安定出来ないという隠れた欲望がーそうでなければ嫌だという、強烈なものがーある。また、頑なに、ちょっとでも安定状態が欠けたら自分は不安であると思い込んでいる訳です。
安定の欲望、これは誰でも持っている欲望ですよね。しかし、それを固定してしまって、もう、こうでなければいけないという固定化―ご自分で固く思い込んでしまってーそういう事を絶対にやらなければ嫌だという気持ちになりますと、ちょっとでも脅かすようなものがあると、今度は、非常な不安に襲われる訳ですね。
我々はいつでも、そういった現象―症状と云いますか、その裏にはいつでも、自分の思った通りにならなければ嫌だとか、そうでなければ、絶対に満足しないという風な、非常に頑固な、もう目的とでも云うものがあると考えています。けれども、当のご本人はそんな風な事には全然気が付いていないんです。
一般に、自分が思ったようにコントロールしよう、自分の思ったままにならなければ嫌だという考え方を、中々変えようとはしないですね。
まず、変えようとしない前に、その事に気が付いていない。私の仕事は、まず第一に、その事に気付かせるという所から始めるんです。
私の仕事というのは勿論、ご本人もいつかは気付かれる事なんでしょう。けれど、私自身が、やっぱり悩んだり、苦しんだりしたものですから、多少、こういうものじゃないだろかな、という風にヘルプと云うんですが、補助が出来るんですよ。
まず第一に、私は苦しんでいる人を見れば、自分もそうだったんですからー人は相身互いー人ごとじゃないんですよ。また、その裏にある、どんな場合にでも、自分の思い通りにするという事はー人間として非常に傲慢な思いですがーそういう事は、現実に出来ない事なのだけれど、そうでなければ嫌だという気持ちは、何処かに有るのですね。
先ほど、老師も仰いましたが、誰だって安心して生きたいし安定も必要だと思うのです。しかしそれを、自分が思った通りに出来なければ嫌だと、そうでなければ自分は安心しないと、野放図と云いましょうか、非常に際限の無い、自分が万能かのように思っている。その考え方というのはおかしいですね。

(自分を見る事の不思議さ)
今のご解説、私には非常に有難いのですが・・。ただ、私をも含め、私共の処へ来る人たちはですね、本当の話、そういった仏教的な事にまったく無知なんですね。
私としましては、もっと前の、例えば明治とかの時代であれば、或いは、もっと仏教の用語なんか使って、うまく解って貰ったのでは無いかと思うのですが、しかし今は、出来ないですね。
私は精神分析とか、精神療法とか色んなものを学んだ後で思うのですが、やはり誰でも自分が非常に大事にしているもの、生命にかえても良いといったものがある訳ですよ。それはある人にとっては名誉だったり、世間体だったり、お金だったり、色んなものがあるんですよ。それが結構、自分である、自分と考えられているんですよ。ですから私は、「あなたは本当はどういう事を大事に考えているんでしょうか?」と問います。そうすると、無意識だけど、自分が本当に一番、大事な事だと思っている事を、次第に意識化して来て、「ああ、そうだ」とわかるようになる訳です。
まあ、簡単に云えばそういう事です。自分が何を目的にして、どういう事をやってて、その結果、こうなっているという事がハッキリして来ますと・・そこまで持って来るのが大変なんですけど。狭い自我と云いますか、自分が自我と考えていたものを、ハッキリ見る事が出来る訳ですね。
私は、この人が自分の姿をハッキリ見られるという所に、非常に大きな、不思議なものがあると思うのですが、大体、人間というのは、ゴタゴタしているのが普通ですね。それが何か知らないけれども一緒に話し合っていると、いつとはなしにハッキリして来る。これは非常に不思議な人間に与えられた能力だと思うんですね。自分が自分を見うる。自分の姿をそのままに、見られるというこの働きは、中々有難いものだと思うんですよ。そして、私はいろんな症状、色んな苦しみに接して、患者さんの話を聴いていると、自分の中にも思い当たり、やっぱり同じようにも感じるものがある訳ですよ。「ああ、この人も私と同じようなんだなー」と、そうすると患者さんの方も、「先生もそうなんですか」と、感じて下さる訳ですね。そこに共に、人間としての、ありのままのーあんまりみっとも良い話じゃないですがーその姿を一応、お互いに認めて行く一つの状況が生まれる訳です。それこそ、お互いに無知なくせに、そうした姿を一緒に見られる。そこに、「なるほど俺はこうなんだなー、ああそうか」というような安堵感というものが出て来る。そして、同時に、しみじみと、「情けないですね」という感慨が湧いて来るのです。
解っちゃいるけど止められないというような、本当にゴタゴタしている自分の姿というものが見えますとね、それは悲しみを持ったもんですけれどね、「お互い感じ合い、人間ってそうなんですねー」という風な共感というものがある訳なんですね。そして自分一人だけが、ゴチャゴチャゴチャゴチャやっていたのが、そうでないっていう感じがする訳です。―その気持ちはもう自分以外、誰にも解って貰えないと思っていたのが、不思議に解って頂けたという、それがもう、安心感の第一歩になりますからね。―そうなんです。私の方としては、そこまで本当に解って頂いたという事が、また凄く嬉しい。(つづく)

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