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愛とは何か?哲学書に学ぶ「1度きりの人生で理想の愛を手に入れる方法」

「あれ…愛ってなんだっけ?」不安や寂しさばかりの恋愛をしていると、何が本当の愛か分からなくなる。理想の愛とは程遠い、苦しい恋愛の数々。見返りを求めない?すべて許す?では、傷ついた私の気持ちは?愛とは自己犠牲なのか?愛の哲学書に学ぶ、実践的な思考法がここに。

「愛とは、与えるものです」
「愛とは、許すことです」
「愛されたいなら、愛しなさい」

あなたは、これらの言葉が正しいと思いますか?

それとも、正しくないと思いますか?


では、次の言葉たちはどうでしょうか?

「自分を大切にしなさい」
「嫌なことは嫌だと、素直に言いなさい」
「あなたを愛してくれる人を選びなさい」

正しいでしょうか、正しくないでしょうか?


最初に挙げた3つの言葉と、いま挙げた3つの言葉は、どこか矛盾しているようにも感じられませんか?

これらは、どれも正しい、そして同時に、どれも正しくないのです。


きっとあなたは、恋愛を経験する中で、自分勝手な行動をする恋人に対して「もっと、こっちの気持ちも考えてよ!」と束縛したくなったことがあるでしょう。

そんな時に、こう思う自分がいませんか?

「相手の自由を尊重するべきなのかな…?」
「でも、自分が我慢しなきゃいけないの?」
「でもやっぱり、束縛って良くないよな~」
「いや、でも付き合っているのに自分勝手な行動をする恋人が悪い!」

ただ単に、恋人から愛されたいだけなのにも関わらず、「寂しさ」と自分自身の「良心」に板挟みにされて、思い悩んでしまうのですよね。


このとき頭によぎるのが、先ほど挙げた言葉たち。

「愛とは与えること」
「愛とは許すこと」

「自分を大切にしなさい」
「嫌なことは嫌だと言いなさい」

…これは、関西人ではなくても「いや、どっちやねん!!」と叫びたくなりますよね。

そして、結局「恋人である私が嫌だと言っているのだから、相手が行動を変えるべきだ!!私は自分を大切にするんだ」という結論を出すものの、やはり、どこか虚しさを感じる。


これは愛なのだろうか…と。


あなたは、愛とは何なのかを説明できますか?

仮に説明できたとして、あなたはそれを実行できますか?

実行できていたとして、”常に”愛を実行できていますか?

そして、その「愛」は本物ですか?


あなたはきっと、もっと穏やかで、幸せに包まれた、「理想の愛」「最高の愛」を手に入れたいはずです。

しかし、愛とは何かが分からないままでは、それを手に入れることはできないでしょう。


ところで、こんな書籍があります。

『愛するということ』/エーリッヒ・フロム(著)

ドイツの哲学者フロムによって書かれた、愛に関する書籍です。


この本の内容は、表題どおり「愛するということ」について書かれており、もちろん恋愛テクニックについて書かれたものでもなければ、愛されるためのノウハウが書かれているわけでもありません。

あくまで、あなた自身が「主体的に愛する」ということについて書かれたものです。

つまり、「愛するとはどういうことか」のヒントが述べられています。


”ヒント”という言葉を用いたのは、この本を読んでも「こうすれば他者を愛せる」という”答え”は示されておらず、むしろフロム自身は下記のように述べているからです。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
(中略)
決定的な一歩を踏み出すところで、議論は終わる。(出典:エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

要するに、愛について議論することができるのは、愛することの前提条件や、どのような考え方で「愛」に臨めば良いかということのみであり、最終的に答えは自分自身で見つけるしかないということです。

そして何より、フロム自身、資本主義による「等価交換」という概念が定着した現代において、真の愛を実現することは非常に困難であると述べています。


とはいえ、この哲学書から学ぶことはたくさんあります。

このnoteは、フロムの著書『愛するということ』のエッセンスを取り入れつつ、現代においてより実践しやすい「理想の愛」を手に入れるための考え方・生き方を提案するものです。

また、哲学書のような堅苦しい表現はなるべく避け、分かりやすく解説しながら、「理想の愛を手に入れる方法」について述べていきます。

※このnoteはフロムの『愛するということ』を参考としたものであり、書籍の内容を要約したものではありません。本の内容を知りたい方は、フロムの著書をお買い求めください。


1.はじめに

このnoteは、恋愛テクニックについて述べたものではありません。

また、多くの異性から愛されるための技術を説いたものでもありません。

更に言えば、恋人から”愛される”ためのノウハウですらありません。


では、一体何が書かれているのか。


このnoteは、「大切な人と深く”愛し合う”ための生き方・考え方」について述べたものです。

つまるところ、あなた自身も”愛する”努力をする必要があるということです。

「一方的に”愛される”ための方法」とは別の話をしているということです。


また、このnoteは「愛とは何か」や「愛し合うための思考法」について論じているものであり、具体的な恋愛テクニックについてはほとんど触れていません。

そのため、「多くの異性から愛されたい!」「追われる恋愛がしたい!」という方には不向きな内容になっています。


一方で、自分勝手で思いやりに欠ける恋人の行動に振り回され、「愛って何なんだろう?」と考えることが多い方や、「互いに深く愛し合う、本物の愛を手に入れたい…」という方にとっては、恋愛観・人生観が変わるキッカケになることと思います。

今までのあなたは、きっと「愛されるため」に努力してきたことでしょう。

そして時々、「愛とは与えること」「愛とは許すこと」という言葉に疑問を抱きながら、相手を尊重すべきか、自分の気持ちを大切にすべきか、という葛藤に苦しんできたことでしょう。

もちろん、このnoteを読んだからといって、これらの苦しみから一切解き放たれるわけではありません。

しかし、このnoteを通して、より他者を、そして自分自身を”愛する”ということが理解できるようになり、「理想の愛」への一歩を踏み出せるはずです。


2.愛とは何か?「好き」と「恋」と「愛」

さて、愛とは何かということについて、考えてみましょう。

愛は恋と混同されがちですが、誰しも、両者の間に「違い」があることは認識していることと思います。

よく用いられる表現は、「恋は長所を見ること、愛は短所をも許すこと」や、「恋は自分本位、愛は相手本位」等でしょう。

よく言われることですから、ただ漠然と「そうなのだろう」と盲信してしまいがちですが、果たしてこれらの定義は正しいのでしょうか?

冒頭で説明したとおり、「正しいけれど、正しくない」です。

なぜなら、これらの表現は、所詮は言葉であるため、あなた自身の置かれた状況と解釈の仕方によって、意味が変わってしまうからです。


しかし、確実に言える「恋と愛の違い」がひとつあります。

それは、「恋は奇跡であり、愛は意志である」ということです。

フロムの著書では、以下のような記述があります。

…恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛の中に「とどまっている」という持続的な状態とを、混同している…(出典:エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

恋は、受動的かつ突然にして「落ちる」ものであるのに対し、愛は「とどまっている」ような感覚のものであり、自ら能動的に育むものです。

つまり、恋に関しては「よし、今から恋するぞ!」と意気込んだところで急に恋には落ちることはできないし、愛に関しては突然に発生するのではなく、「私はこの人を愛する」という覚悟の上で能動的に愛を育んでいかなければ、相手を愛しきれないということ。

端的に表せば、恋は自らの意志とは関係ないもので、愛は自らの意志によるものということです。


世間では、よく「”好き”だけではやっていけない」と語られます。

この言葉は様々な解釈ができますが、この言葉の根底にある本当の意味は「愛がなれけばやっていけない」ということです。

この言葉の捉え方として、「好きでも、”お金”がなければ夫婦はやっていけない」というのは誤りであるといえるでしょう。

なぜなら、お金がなくても「本物の愛」があれば、お金の問題に対して二人で真剣に立ち向かい、乗り越えようと努力することができるからです。

上記の話は綺麗事に聞こえるかもしれませんが、よく考えてみてください。

お金が原因で別れたところで、別れた後にそれぞれ満足な収入が手に入るわけではないですよね?

むしろ、経済的な面を考慮するならば、片親で子供を育てるよりも、二人で協力した方が圧倒的に効率よく稼ぎを得ることができるはずです。

本当に愛し合っていたならば、金銭的・経済的な厳しさがあった場合においても、それが直接的な別れの原因にはならないはずです。


「好きだけではやっていけない」という言葉の「好き」は、「恋」すなわち「恋愛感情」のことを指します。

顔が好みだとか、スタイルが良いとか、仕事をテキパキこなす姿が素敵だとか、分け隔てなく皆に優しい性格に惹かれたとか…

どんな要素であっても、恋に落ちたときの「好き」という、その衝動にも似た感情だけでは、愛し合うことはできないということです。

それは、外見に惹かれたとしても、内面に惹かれたとしても、同じことです。

「顔はタイプじゃないけれど、中身が好き!自分は相手の短所も許せている!」と言ったところで、必ずしもそれが愛だとは限りません。


愛は、「育むもの」なのですから。


3.愛は本当に無条件なのか

「無償の愛」という言葉があります。

見返りを求めず、相手のために行動することを指す言葉です。

相手のことを思って行動すること自体は、それほど難しいことではありませんが、私たちは、つい「いつも自分がやってあげていることを、恋人はしてくれない!」と、”見返り”を求めてしまいがちです。

しかし、自分の利益が皆無なのにもかかわらず、他者のために行動するということは、本当に可能なのでしょうか?

愛は、常に無条件なのでしょうか?


哲学や社会学等の学問において、「母性」と「父性」という概念が存在します。

簡単に説明するならば、母性は無条件に相手を肯定し包み込む性質、父性は善悪を判断し正しさへと導く性質です。

母性は母親だけが持つもの、父性は父親だけが持つもの、というわけではなく、個々人が両方を持ち合わせており、家庭における傾向として母親が母性役、父親が父性役を担うことが多いと考えるのが適当です。


さて、生まれたての赤ちゃんを思い浮かべてください。

生まれたばかりの子どもは、ごはんを食べることも、排泄をすることも、移動することも、何一つとして、自分ひとりでは成し遂げられません。

そんな無力な子どもの世話をしたところで、親には直接的なメリット=「見返り」はないにも関わらず、親は自らすすんで子どもの世話をします。

ただひたすらに、子どもの生命を守り、成長することに喜びを感じるのです。

つまり、生きていてくれるだけで、そこに存在していてくれるだけで良い。

このように、無条件に相手の存在を肯定するのが母性愛です。


しかし、いくら子どもが無条件に可愛いからといえども、子どもが成長して社会と関わっていくに連れて、「生きていてくれるだけでいいよ~」と子どもを全肯定していては、善と悪の区別がつかない人間に育ってしまいます。

そこで、善悪を教え、正しい方向へと導くのが父性愛です。

物事の善悪を教えることは、母性に比べて厳しく冷たい接し方のようにも思えますが、その子が社会に出たときに周りからも愛されるような、ルールを守れる人に育ってほしいという意味では、やはりこれも愛です。

父性愛も、正真正銘「見返りを求めない、相手のための行動」です。

しかし、「無条件」かと言われると、少し違います。


たとえば、あなたが会社の社長だとしましょう。

そして、一人息子がいます。

この息子が、いわゆる「甘ったれ」で、善悪の判断ができず、社会に適応せず、犯罪に手を染めるような大人に育ってしまった場合、あなたはそれでも無条件に「お前は私の子どもだから、この会社を継ぎなさい」と言うでしょうか?

もっと優秀で能力の高い、会社を更に成長させてくれそうな部下がいるならば、自らの努力で築き上げてきた「会社」という財産を、ダメ息子ではなく優秀な部下に譲り渡そうと思うはずです。

そういう意味では、父性愛は「評価」に関わるものであり、「良い子」であればあるほど愛されるというものになります。

だからこそ、ある程度大きくなった子どもは、親に褒めてもらおうと様々な努力をするのです。


最初に述べた通り、母性と父性は男女問わず個々人の中に存在します。

また、母性愛や父性愛という性質は、子どもに対する親の愛のみならず、恋愛やその他の人間関係における愛にも当てはまるものです。


母性愛は、無条件に与える・与えられる愛。

一方、父性愛は条件付きで、正しいこと善いことをすればするほど与える・与えられる愛。


本物の愛とは、母性と父性の両方を伴うものであり、どちらが欠けても成り立ちません。

母性・父性は、ともに愛の重要な要素であり、一概に「愛は常に無条件なものである」とはいえないのです。


4.私たちが愛を求める根本的な理由

私たちは、常に「愛」を求めています。

父性愛は努力によって獲得できるものであるため、あらゆる努力をもって他者から愛されようとします。

誰かに好かれるためにオシャレをしたり、誰かに感謝されるために能力を高めたり、誰かに気に入られるために気前よく振舞ったり、媚びたような態度を取ったり…

なぜ、そこまでして「愛されたい」と願うのでしょうか?

そして、なぜ愛されたいと願って努力を重ねているにも関わらず、私たちは本当の愛に出会えないのでしょうか?


その答えは、意外にも単純で、

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