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クラリネットでジャズをやること - クラリネットジャズ紹介10

10回目は、Benny GoodmanのThe Famous 1938 Carnegie Hall Jazz Concert

クラリネットでジャズをやろうとして結果的に避けて通れなかったBenny Goodmanから1枚かかげて、CDの紹介というよりかはクラリネットでジャズをやることについて考えていることを書こうと思う。

Benny Goodmanを知った頃

スウィングの王様、ことBenny Goodmanを初めて聴いたのは中学生の頃だった。中学校の吹奏楽部で、持ち運びが楽そう程度の軽い気持ちでクラリネットを始めたわたしは、うまくなるにはCDを聴いたほうがよいらしい程度の軽い気持ちで、CD売り場のワゴンセールでBenny Goodmanのベスト盤を購入した。今となってはどのベスト盤だったのかわからなくなってしまったが、歓声と昔の音源ならではのザリザリした音が演奏の後ろでずっと流れていたことを覚えている。吹奏楽で充填されていた当時の狭い世界の中では決して求められないだろう、弾むリズムと嘘みたいに明るい音色。楽器を始めたばかりのわたしたちの中に流布していた「うまくなるにはCDを聴いたらよい」という言説は、いわゆる「この人みたいに吹きたい」お手本を探させるために誰かが流したものだったのだろう。しかし、Benny Goodmanは当時のわたしの直のお手本にはなってくれなかった。

直接意識はしなかったけれど、そのCDはしっかり古のiPodに入ってきて、吹奏楽の音作りとは離れたところでわたしの演奏者としての自我を作ってくれていた。そのクラリネットの音色は、楽しい曲では笑っちゃうぐらい愉快に、悲しい曲では嘘みたいに悲しく、舞台の周りの人たちをかき分けて真ん中でしっかりと喋る。旋律で喋りたいことは一本でもはっきり立つ音色と喋り方で、周りのリズムの波と一体化して吹いていたい、という理想像は、後から思えば彼の影響に他ならない。

コンボジャズとの出会いと、Benny Goodmanのスタイル

時が流れ、大学のジャズ研でセッションと即興演奏の「おもしろそうさ」にあてられてコンボジャズをはじめることになった。それまでにBenny Goodman以外のジャズなんて意識して聴いたことがなかったので、モダンジャズは未知の領域だった。周りでどんな仕組みで音楽が動いているか、理解しないといけないことが多そう過ぎて「おもしろさ」を感じる(ことができるぐらいハードルを下げられる)には時間がかかった。でも、その時言いたいと思ったことを表現したいように絞り出し、相手も思ったように絞り出してくれる、この相互作用が心底楽しかった。普段言葉のコミュニケーションではこんな原始的なことすらできていない気がする、でもクラリネットでだったらそれをやろうと試みることができる。こうしてわたしは演奏者としてもいちリスナーとしても、コンボジャズにはまっていった。

クラリネットでジャズををしています、と言うと、誰が好き?と尋ねてもらえることがたまにある。管楽器でジャズをしている初めましての人に誰が好き?と聞くのは、その人がどんなスタイルの演奏者なのか?を探って、その人をもっとわかろうとするための質問だと理解している。そして、その質問はいつもわたしを悩ませた。ちゃんと聴いたことのあるジャズクラリネット奏者なんて知れているし、そのなかでも一番回数聴いたといえるのはやっぱりBenny Goodmanだ。でもわたしは彼のような音楽がやりたいのか?弾むようなスウィングのリズムも、嘘みたいに明るい音色も、彼が言いたいことにはぴったりなのかも知れないけれど、わたしなんかが表層を真似しても何にもならないのではないか。彼のスタイルの音楽は嫌いじゃないけれど、わたしもそのスタイルで喋ってみたいと思っているかは自信がない。そんな風にぐるぐる考えた挙句、結局Benny Goodmanを控えめに挙げてお茶を濁すことが何度かあった。

実際、Benny Goodmanの作品は、簡単に追随を許さないような独特の魅力を持っている。彼のバンドの多くのテイクは、冒頭からざわめく空間に一気に照明をあてるようなホーンの華やかなスウィングの旋律から始まる。それに時に上から乗っかるように、時に切り裂くように、時にひとり違う方向を向いて皆を先導するように、クラリネットの音が伸びる。他の音とリズムは一体化しているのに、決して交わり合うことのない部分もある。モダンジャズの時代には、スウィングジャズは商業的で変化がないとの批判を受けることもあったという。1930年代のアメリカの栄光と時を同じくしてスウィングの時代を築きジャズクラリネットを有名にした彼は、あまりに特定の時代の代表的な存在になってしまったせいで、時代遅れだとの批判を受けることもあっただろう。それでも、彼は演奏活動を続け、自らのスタイルを貫いていく。楽しい曲では笑っちゃうぐらい愉快に、悲しい曲では嘘みたいに悲しく、強烈なスウィングのリズムと一体化して揺れる音は、クラリネットの楽器がもともと持つ音とも相まって、どこか明るく孤独な道化師を思わせる。

クラリネットでジャズをやること

それから、尋ねられて悩んでいた頃よりはたくさんのクラリネット奏者を知り、CDやライブを聴き、練習したりした。まだ何かをわかったと言うには腕も頭も未熟だとは思う一方、一緒に演奏したメンバーと協力して言いたいことが言えたなぁ、と思う演奏機会もありがたいことに何度か積ませてもらうことができた。そして何より、ジャズをやるなかで、自由に自分のスタイルを追求する人たちにたくさんの影響を受けた。演奏スタイルも、練習も音楽との付き合い方もいろいろな人々が、それぞれのやり方でジャズをやっている集合のなかでは、自分がどうしていきたいかを意識的に選ばざるをえない。そのなかで、きっとわたしがジャズをやるかぎり、Benny Goodmanのスタイルと相対することは避けて通れないのかもしれない、と思うようになった。

サックスやトランペットよりもプレイヤー数が少なく、さらにジャズクラリネットと言えばあの音、あの曲、と鮮明に思い浮かべてしまう強烈なスタイルがある。そんな中で、ではあなたのスタイルは何か?と、Benny Goodmanを聴くといつも問われているような気がする。自分の言いたいことを言えるスタイルはなんだろう、と模索するなかでいつも頭に出てくるのは、あの明るく孤独な道化師の像だった。モダンジャズという文脈に置かれたクラリネットのどことない孤独さを勝手に感じ取って投影してしまっているのかもしれない。そもそも、即興演奏で他者と何かを作り出すということ自体が、自己と他者との埋められない断絶を前提としている以上孤独な営みなのかもしれない。

クラリネットでジャズをする限り、あなたのスタイルは何か?というBenny Goodmanからの問いへの答えを探していかなければいけないのだろう。今年はあまり思うように演奏も練習もできなかったけれど、2021年はもっと答えを探せる一年を生きていけたら良いな、と思う。


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