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クソ哀れなるものたち〜fuxxin poor things〜『哀れなるものたち』の感想

暖かくなり軽装で済むことで洗濯が楽になり、地球に感謝しています、メイテイです。

最近観た映画の中で、最もメイテイを苦しめたで賞を受賞

もう本題に入ってしまいますが、哀れなるものたちは非常に苦しい映画でした。友人に勧められレンタルし、自宅で観始めたのは良いものの、あまりの苦しさに1時間足らずで「すこし休憩しよう」と言い、一緒に観ていた友人に心配されたほどです。

自室のベランダに出てうなだれて、この苦しさの正体についてずっと考えていました。結果的には「最後まで見ないとこの苦しさは解消されない」と思いたち、実際、苦しくはなくなりました。そして、その苦しみに応じた、しかるべき報酬も頭の中に入ってきました。

ダンカン・ウェダバーンとかいうクソ哀れなもの

僕は、ときおり人間は人間に轢き殺されることがあると思っています。それは恋愛にしろ仕事にしろ、ありとあらゆる人間関係で起こりうるアンフェアで突発的な出来事です。人間は誰しも生まれながらにしてブルドーザーなのです。

ですから、どんな英雄譚でも成長譚でも、必ず主人公に轢き殺されているキャラクターがいます。
分かりやすく言うなら、魔王がそうです。魔王は勇者に倒されますが、魔王には魔王、魔族のコミュニティがあったはずで、世界を脅かす存在になるまでの成長と苦労があったはずです。

エマ・ストーン演じるベラ・バクスターはそれなりの人数を轢き殺しているようにみえますが、中でもウェダバーンはオーバーキルです。彼は遊び人としての好奇心からベラを屋敷から連れ出して、外の世界を一緒に周ります。

しかし、実はこの時点で、ベラの真実を黙っていたゴッドウィンと、ベラ本人に轢き殺されています。
想像以上にベラは幼稚であり無知です。社交のしの字も知らず、よく知っていることは性交の幸せだけ。連れ出してすぐに、それを思い知ったウェダバーンは頭を抱えます。無知は罪ですが、ウェダバーンは罪のスケープゴートとしての役割を十分すぎるほど果たしています

とはいえ、ゴキブリのような生命力を生粋の遊び人として持っているウェダバーンは、その程度ではへこたれず、船旅にベラを誘い出します。ベラは淑女マーサと出会い、本と出会います。本と社交はベラを魅了して、難しい話をし、ウェダバーンをまた轢き殺します

このとき、ウェダバーンはマーサを船から落とそうとしたり、ベラを執拗に誘ったりなど、哀れな行動が目立ち始めます

そうです。恋愛の過程で自身が選ばれなくなると感じ取った男は、おおむねこういった行動を取るでしょう。相手の中で自らの価値が危ぶまれていると直感で理解し、その否定、反証を行いたくなります
不満と不安と承認欲求、持てる限りのすべてを相手にぶつけて、振り向かせたくなります。哀れです。いや、クソ哀れです。

クソ哀れの末路

終いには、カジノで大勝ちした金のすべてを、現実を知ったベラに勝手に寄付されてしまいます。
死体蹴りもいいところです。すでにベラに持ち得る全てを捧げているのに。矜持も時間も特別もすべて。さながら、ホイールの下敷きになったままドリフトされているようです。
この辺りで僕は苦しくなってベランダに出ました自分の人生で思い当たる節がありすぎて

結局、物語の最後では目も合わせられないほどクソ哀れな姿で、ベラの結婚に反対する夫の味方、つまり敵になっています。相手の悪意に関係なく、好意を踏み躙られ続けた人間の気持ちは、愛憎が入れ替わるようです。

終盤では、僕は一緒になってベラを憎んでいました。こいつは幸せになってほしくないとすら願っていました。幸い、知能を持ったままのベラは、夫に拘束され、暴力の下にさらされ、ある程度の犠牲を払ったように見えました。危うくメイテイはベラを嫌ったまま物語が終わるのかと、いらぬ心配をしてしまいました。

苦しみののち、サウナのあとのように、心身ともに整った気持ちになりました。強い苦しみは、相対的に人の感情を安定させるように思います。

ウェダバーンはあまりにもベラにズタズタにされていて、よく見ずとも跡形もありません。人のカタチを保っているのが奇跡です。クソ哀れなるもの、その末路はこのようなものなのだと肝に銘じておき、教訓とし、苦しみの報酬としておきます。

追記: ファム・ファタールとしてのベラ

最近面白い言葉を知りました。ファム・ファタールです。

ファム・ファタール(仏: femme fatale)(或いはファム・ファタル)は、男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)というのが元々の意味であるが、同時に「男を破滅させる魔性の女」のことを指す場合が多い[1]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファム・ファタール

メイテイが知る限り、こんなにもベラをうまく形容した言葉はほかにないです。
もちろん、これまで無学だっただけで、ファム・ファタール的ふるまいのある人物像や、ファム・ファタールをつかった類型の物語はごまんとあるとは思います。

ファム・ファタールは男目線でみたとき、運命的な相手と、自らを破滅させる存在が同一視されています。これほど矛盾した言葉はありません。運命を変えるほどの相手というのは、すなわち破滅させるものと同義なのです。決して紙一重ではありません。同義です。

どうして、破滅と運命は同義なのでしょうか? ウェダバーンの例で見てみると、彼は人生のほとんどをベラに捧げています。それほど強烈に惹かれていると分かってしまったからです。

すぐにそれとわかる運命は、自身を粉々に打ち砕く破滅へのスイッチでしかありません。
血眼になって追いかける必要があるほど魅力的な相手は、これまでの人生にはなかった特別な存在だからです。
その強烈な存在感は魔力を帯び、いとも簡単に破滅へのスイッチを起動させます。人生を捻じ曲げる運命の存在という筋書きによって、無理ができてしまうからです。もう二度とないチャンスが引き金となり、あとに引けなくなるからです。

運命の相手はそう簡単に現れないことは誰にとっても明らかです。だから血眼になる必要があります背水の陣を敷く必然性が出てきます。ほかの一切を捨て去り、持ちうる限りの力を尽くさなければなりません。
据え膳食わぬはなんとやらです。果ての自分について冷静に考える余地など、どこにもありません。苦しいできない? そんなことを、いま目の前にいる運命の相手を前にして、誰がほざけるでしょうか。

その先にあるのは、哀れなるものたちに描かれているように、すべてを捧げたあとの破滅でしかありません。

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