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詩然な文章

自費出版の三兎群青『燃えない炎』を読んだ。彼の文体は独特で、村上春樹の流れをくむような、他国語から翻訳された文章や、嘆き(なんということだろうか!)など、特有のクセがある。どちらかと言えばフィッツジェラルドか。

白状すると、途中まで退屈に感じて、読み進めるのに詰まった。というのは、全体をどう捉えたらいいか分からなかったからだ。雰囲気があるキャラクターたちが魅力的なのは間違いないが、ドラマティックに展開していく物語ではなく、台詞の掛け合いは結論ありきだった。果たしてこれを物語として定義していいのか、とすら悩んだ。どんな物語も読みたいと思う一方で、ポップな物語に慣れすぎて、クセのあるものが読めなくなったのかと、自分に失望したりもした。端的にいえば、この不自然な本の読み方が分からなかったのだ。

少し間をあけて、また読み進めた。詰まることはなくなったが、物語が頭の中に入ってくるようになることは一向になかった。これは本当に小説なのだろうか、いったいなんなのだろう、定義できない、カテゴライズできない、整理がつかない。どうにかして感想をまとめようと試み続け、あるときはたと気づいた。これを小説として読もうとしているから、物語として捉えようとしているから、たのしくないのだ、と。そう考えるた途端に、脳が切り替わった。全体を文字の流れとしてとらえ、ストーリーラインを追いかけるのをやめた。

読み方を変え、進んでいくうちに、この読み方は小説に対するそれではないと感じ始めた。これは物語でもあるが、壮大な詩だったのだ。詩に対して、ストーリーラインやプロットについて考えるなど、あまりにもナンセンスだった。雰囲気を感じられるとするすると言葉が入ってきて、世界の中に浸ることができた。むずかしいことは考えなくていい、詩を読むように、歌を聴くように読めばよかったのだ。言葉の羅列を音節として認識し、詩の塊として確かめることで、新しい世界へ飛び込むことができた。これは最初から、詩然な文章だった。

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