【おまけ】安西覚承

こんばんは。じょーどの赤坂です。

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安西覚承『法然上人の和歌』(法然上人鑽仰会・昭和18年)

安西覚承上人は、『浄土宗人名辞典』に載っていないのでよく分からないのですが、安西承信上人(1875~1941)の弟子で三河教区豊田市の性源寺を継いだみたいですね。雑誌『浄土』では法然上人の和歌の連載をしていました。

個人的に解説が好きなだった法然上人の和歌を取り上げたいと思います。


あみだ佛と十声となへてまどろまむ 

    ながきねぶりになりもこそすれ


通釈 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と十声唱えて睡ろうよ、常なきこの世、しばしの眠がやがてそのまま永き眠となりもするのだから(39頁)
感想 今日がこのようにあるから明日もまたこのように、従来がそうだから従って将来もそのようにと、どうやら過ごして来た今までのことに慣れきって、漠然たる安易を未来に託して過ごしている。お互いの生活のうちに惰性的なものの占める部分が何と多いことであろう。惰性は生命の麻酔剤である。人の生命はかくて惰性の麻薬の睡さから安易に醒めようとせぬ。ただ心にみ佛を憶い口にみ名を称える時に生命は真実性を取り戻す。それは今までの油断、仮眠からかけ離れた大きな楽しさ安らかさの世界である。
お先真っ暗の私共、就床必ずみ名を呼ぼう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、称えていると、何ともいえぬ安らかさが拡がって来る。伸び伸びと身と心の隅から隅までこの楽しい安らかさが浸し亘ったとき、平和な睡が既に私共を訪れている。すべてがみ佛に任されて執着、停滞するものの無い、よき睡である。妄念に煩わされて熟睡し難いような輩にとってお歌はとりわけ身近に誦されねばならぬ。
歌僧西行は詠った。
夢さむる鐘のひびき打ちそへて 十度の御名を称へつるかな(山家集巻下)
念佛に睡り、念佛に覚める、何といふ安らかな明暮であらう。慕はしい生き方であろう。(41頁)

長文の引用になりましたが、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えて、阿弥陀仏に全てを任せることで、安らかな眠りと目覚めが訪れることでしょう。私も明日が来なければいいと思うことも多いですが、明日の生き方すらも阿弥陀様にお任せして、”なんとかなる”と思って明るく考えたいものです。

ちなみに連載当時と、書籍化されたものでは、解説の内容が違っていますね。PDFで見れます。

ではまた。共生合掌。

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