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WEB版「じょーど」始動 #1

こんばんは。じょーどの赤坂です。

じょーど蛙

今回から少しずつ法然上人鑽仰会の新ホームページ立ち上げまでの記録を綴っていきたいと思います。朝ドラみたいなドタバタ劇(おちょやん面白い)になるといいのですが、そのあたりは記憶の勢いまかせに”ぶわっと”長期連載していきたいと思います。

まずは自己紹介から

1990年/福島県伊達郡桑折町生まれ。
大正大学大学院修士課程(浄土学)修了。
福島教区中央組無能寺の弟子。開山は無能上人。
創刊当初の雑誌『浄土』に関心を持つ。
ラーメン好き。ヒラメクカエル。

新HP「じょーど」のプロフィール欄はこんな感じにしました!!(未公開)
若干、意味不明なところは置いといて、

前回、法然上人鑽仰会では、昭和10年(1935年)から雑誌『浄土』を発行していると書きました。その創刊当初の頃の『浄土』が好きだったために、今の編集長と御縁が出来たわけであります。

法然上人鑽仰会との出会い

少し前に編集長にお渡しした原稿(これも未公開)を載せて、簡単に私と法然上人鑽仰会との出会いとさせていただきたいと思います。まずは今回は(前編)ということで、

月間「浄土」と私(前編)
 「浄土」との出会いはいつ頃だったろうか。本棚から日焼けしてかび臭い「浄土念佛読本」を手に取った。
 7年前、私は大学院で近代浄土教を学びながら、その大方の関心を仏教福祉・教育に向けていた。今思えば仏教を如何に社会に打ち出すか、そのようなことばかり考えていた。しかし、寺での生活をしたことのなかった私がその当時、実際に寺院運営を目の当たりにすると、知らず知らず迷路に誘い込まれていた。
 自分には信念がある。そう思い込んでいた私は、自分の信念が理想ばかり語っていることに気づき、
「本当にやるべきことは何だろう」
と壁にぶつかった頃には、足元は崩れ始めていた。恥ずかしながら、私の外側に向かっていたエネルギーは内側の信仰を通っていないハリボテだったのである。それから恩師に暇乞いして、故郷の福島へと戻った。
(帰郷後に待ち受けていた苦難の生活は紙面の関係上、省略する)
 私は再び東京に戻り、今新しい生活をしている。だが以前と違い、今は常に自分の悩める信仰と向き合っている。さてもういい加減、読者は私と「浄土」との関係を疑い始めた頃と感じるので、私を立ち直らせてくれた先生を紹介したい。それは法然上人鑽仰会創設メンバー、偉大なる真野正順・中村辨康両先生だ!(続く) 
                 赤坂明翔(福島・桑折 無能寺徒弟)

続きはまた次回に。共生合掌。

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