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水中の哲学者たち

今年出会って1番よかった本を。

あらすじを読んで、この人に惚れてしまった。

やっぱりわたしは、深く考えること、悩むことを水の中にいると表現する人が心底好きだ。湖の底にいて陸からの声が聞こえない、うまく浮かべない、そんな人たちの声を拾いあげる。


変わることが前提のこの世界で、


「自由の尊重と無責任な放棄は違うんじゃないですか」という問いに頭が殴られたような気がした。
ああ、わたしはずっと、自由の意味を履き違えていたのかもしれない、と思った。無責任な放棄だったのかもしれない。

フランス革命のように、努力して手に入れた自由ではないから。もともと身近に自由があったから。自由がなんなのかもよくわからないまま、自由と責任を天秤にかけて、自由を選択していたけれど、これは自由のようにみえて自由ではなかったのかもしれない。

あなたの人生なんだからお好きにどうぞ、最後はあなたが決めること、と相手を尊重していたつもりだったけれど。あなたが自由になるために、わたしが考える。わたしが自由になるために、あなたが考える。自由とは、もっと関わり合うことだと思う。


自分のことが一番わからないこと。 当たり前なんだが、そりゃそうだと思った。

自分のことが1番わからなくて当然じゃないか。だって、見えない。自分のことは1番見えない。そうであるなら、自分のことがわからなくて嘆いている君は、安心する。他者よりも他者なのが自分である。他者を見ることはできるけど、自分を見ることはできない。



ひとは「一貫性」に憧れる。樹木の幹のように筋の通ったブレない軸を信頼する。考えを変えると、一貫性のない優柔不断な人間だと思われる。議論の場では、意見を変えたら負けてしまう。

「不変」にも憧れる。結局私の言いたいことは30年前から変わらないのです、なんて言われるとかっこいい、と思う。肉体が滅びてもバトンのように受け渡される不変の魂を夢想するように、時代や環境が変わっても動かない考えに惹きつけられる。それはきっと、人間がうつろいやすい存在だからだ。運命を誓い合った恋人たちは、あっけなく別れてしまう。初心を忘れて欲に邁進する。変わる。変わってしまう。

私たちは急いでいる。私たちは速度を求めている。もっと速く、もっともっと速く、より多く、より豊かにより意義深く。よろ豊穣な実りを。より膨大な成果を。だが哲学対話は「急ぐな」と言う。「立ち止まれ」とささやき「問い直せ」と命じる。

「自由の尊重と、無責任な放棄は違うんじゃないですか」

人々と共に考える場では、あなたはあなたでご自由に、とうつむくのではなく、あなたがもっと自由になるために、あなたを気にかける。私がもっと自由になるために、私を気にかける。共に考えるといこと自体を、気にかける。

私は自分の人生を自分で選ぶことができる。それと同時に、他者との、世界との関わりの中で、私は考える。不思議なことに、両者は対立しているようで、揺らぎながら繋がっている。

私は祈る。どうか、考えると言うことは、眩く輝く主体の確立だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。

それらが見せてくれる世界は甘い甘い夢だ。いつか、その甘さは私たちを息苦しい湿度の中で窒息させる。誰かが話す。私が応答する。ある人が問う。誰かが応答する。それに触発されて、また誰かが話す。私が考える。私たちが考える。

眩く、わかりにくく、不安定な自由。世界に傷付けられ、世界に笑わされ、世界に呼びかけられ、世界とともに、私たちは考える。ちっぽけで祝福に満ちた自由のために私たちは考える。

哲学することの根源は「驚異と懐疑と喪失の意識」であると言った。人は、びっくりしたり辛いことがあったりすると「なんで?」と問いかけてしまう。要するに「は?(脅異)マジで?(懐疑)つら(喪失)」から哲学は始まるのだ。

自分のことを自分で見ることはできない。これは私が幼い頃に自分で導き出したことで「人は死ぬ」の次に衝撃的な事実だった。物理停に見ることもそうだが、人は自分のことをあまりよく知らない。他者よりも他者なのが自分である。

色々と考えてみると、もしかしたら最も近くて最も遠い人って自分自身なのかもしれない、と思う。私は今までもこの先も、意匠自分自身の姿をこの目で見ることはできないし、この文章を書きながら、五回くらい何が言いたいんだっけ、とわからなくなった。

目の前の人を心から尊重し、真理への情熱を持っていて、哲学を心から愛している人に。

「他者を決して手段としてだけではなく同時に目的そのものとして扱うべきである」カントの美しい文章を引用しながら、私は夢中で他者への尊重や承認がいかにつねにすでに行われているかを検証しようとする。夜一人で研究室に残ってキーボードを叩いていると、人間が好きだなあ、と思う。そしてすぐに、なんて無責任な、と自分に失望する。本当に身勝手で、夢見がちで、狭小だ。

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