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死について、考えた日

昨年から今年にかけて、親族が立て続けに亡くなり、
人の死について、なんとなく考える機会が多かった。

その中でも、今日、義理の父とお別れして思ったことがあり、記録として残しておきたい。


義理の父は突然、亡くなった。

今日、夫とわたしだけで簡素なお葬式をし、火葬を執り行い、無事に送り出したときに
自分の人生の最期、死について考えた。


生前、終活などは全くしてこなかった義理の父。
わたしたちは、本人の最期の希望はわからなかった。お墓はどうしたいのか、どのように弔って欲しいのか。

親戚付き合いも少なく、参列する人もいないお葬式で、本当によかったのか。
棺に、何か好きなものを入れても良かったのではないか。
様々な思いが巡るが、何しろ突然のことで、バタバタとここまで来てしまった。



義理の父と夫は、仲が悪いわけではなかったが、付き合いは少なかった。
ここ数年のうち、認知症を患ったこともあり、わたしもほとんど顔を見ていなかったし、娘の成長もほとんど見せていなかった。



最期は孤独に亡くなった。
苦しまなかったようで、そこだけは、救われた部分だった。


孤独、を寂しく思う反面、義理の父が孤独になるには、それなりに理由があった。

頑固で、わがままで、世間知らずな人だった。
夫がどうにか説得して良い道を一緒に模索しようとしても、自分がやりたいようにしてきた人だった。


わたしは、自分自身の先のこと、死についてを漠然と、でもいつか訪れることとして考えた。
残された家族や周りに面倒をかけずに旅立てるかどうか。

自分にはまだ早いかなとも思うけれど、今回のことで、きちんと整理しておくことは必要だと思った。


そして、今回経験したことが活かせる場があるとすれば、実の父母、義理の母を見送る時。

遠方で年2回ほどしか会えない父母。
海外にいて、直接はほとんど会えない義理の母。

たくさん話したり、考えを聞いたり、交流したい。
「もっとしてあげたかったな」と後悔せずに済むかもしれない。

もちろん、家族以外にも大切な人はいるけれど、まずは周りから。
わたしに出来ることは何か、少しずつやっていきたい。

そんなことを思いながら、今日は何だか眠れない。


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余談。少しスピリチュアルな話。
(スピリチュアルなことはあまり信じていない方だけど)

お葬式の後、遺品が少し入っている段ボールを持ち帰り、玄関脇に一時的に置いていた。

寝室に移動する時、その前を通ろうとすると、娘が立ち止まって動こうとしない。
段ボールの方を見つめ、扉に隠れたりして、明らかに様子がおかしい。

わたしは、娘には何か見えているんだと感じ取った。こんなことが、偶然起こるわけない、と思ったから。

「何か見えるの?」と聞いてみる。
答えてはくれないが、また段ボールを見つめニヤニヤしたり、隠れたりしている。

段ボールの近くを通るのを避けるようにして通り過ぎても、また振り返って見ている。

「あなたのジジ(おじいさん)だよ、あなたに会いにきたのかもしれないね」
と声をかけると、娘も「ジジ」と繰り返した。
そして気にしながらも満足した様子で、寝室へ向かった。

孫の顔を見にきていたのかも。
きちんと供養するので、見守っていてください、と願う。

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