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競争と共生:子育てで直面した価値の対立

22年は「ただ共に生きることの価値」を考えていました。
「これが今でも本当に尊い事だと言えるには、もっと言葉が欲しい」
そう思いながら、探しあぐねています。

共に生きることと子育て

福祉の現場では「見守り」や「寄り添い」という言葉でも語られる、この「何かやっていそうで、何もやっていないかのような営み」の深淵さ。
それを「現代的価値観とどうしてこうもソリが合わないのか」という憤りにも似た違和感として、ザラザラ撫でるように見つめていました。

私にとり、6年前に始まった子どもを育てるということは
常々 職場(外資系大手IT企業)を通じて培ってきた
・コスト効率性
・自己実現の追求
・結果にコミットすること

という価値観に挑戦されることであり、即ち
・非効率性
・他己実現への献身
・結果の不確実性

という新しい価値観を受け入れる、慣れるという修行でした。

いや勿論、表層的にはただただ子どもを可愛がっているのだけども、
ふとした瞬間に、例えば子どもの遊びに付き合っているような時に「もし、この行為に本当に価値があるのだとしたら、それはどういうことなのか」と思わずには居られなかったのです。

忙しく幸せで愛おしいのに虚しい?

子ども3人育てていれば手が3本か4本欲しいくらい忙しい瞬間もある。
子どもの行動や発言に胸を打たれて感激している瞬間もある。
だけど、圧倒的な時間は日常を繰り返す、その繰り返しに費やされていて、一抹の虚しさを伴うのです。
何かインプットしているわけでもアウトプットしている訳でも無い。

効率性や自己実現の眼鏡を掛けたまま、子どもと向き合っている時間を評価したら「非生産的な時間」となってしまう。
だから、この時間に価値がある、と説明して欲しいと思いました。

子育てで求められる価値観とは

改めて、子育ては効率的でも自己実現でも結果をコミットするでも無いとはどういうことかを書いてみると、以下のようになります。

非効率性:子どもはタイパもコスパも関係ない、非効率的な生き物です。最小限の労力で最大限の成果を求めることは出来ません。(例えば毎食の離乳食を既製品で済ますことで食事の手間を省くといったことはあるかもしれないけれど、それはあくまで家事/炊事を効率化しているだけであって、子どもと話す時間や姿勢を効率化しているわけではない。)

他己実現への献身:子どもに向き合うということは、彼らの伸びようとする様をよく見てそれを助けることであって、私のやりたい子育てや家族像を彼らを材料に実現する訳ではありません。(むしろ私の時間を投げ打って彼らと向き合う。)

そして結果の不確実性:世に育児ハウツー本は溢れれど、最終的には「その人の・その時の・その子の」文脈で成功したというのみで、「私の・今・この子の」文脈で、うまくいくとは限りません。特に10年以上の結果についていえば尚さらで、昨今の「何がこれからの時代の成功か」すら揺れている時代にあって、何もコミットしうるものは無いと思います。

これらの3要素は、いちいち現代的な価値観に反するように思うのです。
あれが出来ること・これを達成すること・それを身につけていること...それもなるべく早く!!早ければ早いほど、複利が効いて後々の成功をより大きくするから。
そういうプレッシャーがある中では、上記のような要求は、障害にしかなりません。

仕事と子育ての両立を超えた何か

この障害を克服して、キャリアを築くこと。それがキャリアの成功なんだろうか。本当だろうか。
ずっと漠然と疑問を感じていたことではあるけれど、アメリカに来るまでは私もフルタイムで常に働いていたので、上記のような子育てで要求されることと、現代的価値観の相剋は、あくまでも「仕事と子育ての両立」というテーマで思考されていました。

でも、アメリカに来て自宅保育をするようになり、ようやく気付いたのは「仕事と子育ての両立」という時は、あくまでも「仕事側に価値基準がある」考え方の議論だな、ということでした。

両者の対立を融和するものでは無く。

現代的な価値観を『仕事と家庭は両立できない?』という本に倣って、便宜的に「競争的な価値観」と再整理するならば、これは子育てしているときの価値観とあまりに乖離が大きいように思います。

2つの価値観の世界を日常的に行き来するうえで、どちらの価値観が是かどうかというよりも、2つの価値観があまりに離れていることが堪らなくなりました。

競争と共生を包括するメタ価値は?

前述の本の中では、「競争の価値」と対立する価値は「ケアの価値」なのですが、「ケア」もかなり作為を感じる言葉です。

何かもっと、ただ人が人と一緒にいることの価値、「共生の価値」とでも言うようなものを競争的価値と矛盾しない形で見出さないといけないと思いました。

共生の価値を競争の価値に比肩しうるものとして見出す、というよりは、その対立を超えて両者を包括するような上位概念が欲しい。
(ここら辺、本当は『居るのは辛いよ』などを再読して上手く整理したいのですが、無理やり続けます。)

ここで、子どもを迎えたなら子育てに専念しよう!それこそが人生で一番大事なことだ!と言いたいわけではないのです。子育てもするし、職場など別コミュニティの良き一員でもあることをむしろ肯定したいと思います。

更に子育てだけの話をするつもりでも無いのです。私にとってこの事を考える題材が子育てという体験だったというだけです。
介護もそうかも知れないし、病身の友人の話を聞くことでも良いかも知れない。

伴走型支援からの演繹

NPOの仕事を通じて、伴走型支援に触発されていたことも私の思考に多いに関係します。
支援が必要な人に対して、生活上の困難(例えば貧しさや住まいの無さ)といった課題の解決だけを殊更に支援するのではなく、そのようなピンポイントの課題解決を補完/補強するものとして「その人がより生きやすく日々を過ごせるよう長期的に支える」ことを前提とした支援の在り方が試行されています。
この伴走型支援も、非効率的で、他己実現の献身であり、結果をコミット出来るものでは無い(Aさんの生活が穏やかに続いているからといって、Bさんもそうなるとは限らない。)と私は理解しています。

冒頭で、「何かをやっているようで、何もしていないかのような営み」と書いたけれど、「何か積極的に、むしろ忙しいくらいに目の前の事には対処しながら、でも何も恣意的にその人を変えようとはしていない、営み」なのかも知れません。

美辞と念仏を超えて

「レンタルなんもしない人」がどうしてあそこまで求められるのか。
どうも、ある人が他の人と共に時間を過ごして、お互いの在り様を認めていることに価値があるらしい。それも非常な価値が。と思わずにはいられません。

そのことを美辞と念仏以上に説明できるとしたら何なのか。なんなんだろうなぁと、探しています。

これだけ長文を書いた挙句、もう少し時間を掛けて考えたく、むしろ結論を急ぎたくなく、一旦は「何らかの相剋がある」という問題提議として終わりたいと思います。

今の所、私の答えは「人は『他者と一緒に生きる』生き物で、特に誰かを幸せにするよりは、誰かを不幸にしないことが非常に大事なので、それを目指して生きる」というものです。「この実践を色々な形で、時に仕事を通じて、時に家族の営みを通じて、あるものは有償で、あるものは無償で行うよう組み立てたものが『生活』だ」ということで、競争的価値観の行為と共生の価値観の行為を同列に扱えたら良いと漠然と考えています。

また何か良き言葉が見出せますように。