小説 流転の徒(その1)
毎朝目が覚めるといつも、背中は荷物を背負っているように重く、胸は何かに押さえつけられているかのように息苦しい、そんな感覚から神代優也の一日は始まる。
目覚ましに一杯のブラックコーヒーを飲み干し、えんじ色のネクタイを締め、グレーのスーツ姿で仕事先へと向かった。
駅に向かう道中で見かける家々の花壇には紫陽花が咲き始めているが、優也の目には微塵も映ってはいない。電車に乗って2駅の場所に仕事先がある。
向かう先は「無料低額宿泊所」俗にいう「無低」だ。
その施設で元ホームレスの生活保護受給者を世話する、いや、監視するのが彼の仕事だ。
「おはよう」
いかにも築年数が経っていそうな2階建てのアパートに到着すると、すぐに各部屋をノックしていく。
入居者の中には彼の挨拶に対して呼応する者もいれば、聞こえているのかいないのか無反応な者もいる。
ほどなくして先輩職員もやってきた。
「どうや、全員おるか」
「はい、全員おると思います」
「お前なあ、前から言うてるやろ。思いますて。おるんやったらおるって言うだけでええねん」
坂井は呆れた顔で言った。
「すみません。おります」
慌てて優也は言い直した。
「ほな、朝飯配っていこか」
この施設では朝夕に食事を提供しているのだか、朝食といってもアパート付近のコンビニかスーパーで買ったおにぎりかパンと飲料だけだ。
以前は風呂、トイレ共用の下宿として使用されていたこの古アパートを、優也と坂井が勤務するNPO法人が買い叩き、無低として利用している。
部屋は1階、2階合わせて10戸あるのだか、今現在2階に空き部屋が1戸ある状態だ。
アパートの住人達はこの空き部屋を「魔の206号室」と呼んでいる。
これまで206号室に入居した者は逮捕や夜逃げなどの理由で1ヶ月も経たないうちに退去となっているのだ。
「朝飯も配り終えたし、今日も206の入居希望者を探しに行くで」
無低に入居する者は半数以上が生活保護受給者であるが、ここでは全ての入居者が生活保護を受給している。
施設側は利用料などの名目で入居者から費用を徴収し、それを収入源としている。
そのため、入居者が一人でも多い方が儲けにつながるというわけだ。
なお、事実上の金銭管理は施設側が行っており、各入居者は月3万円だけ生活費として渡されている。施設側は後々問題が起きないように入居時点で金銭管理委任についての承諾書にサインをさせている。その内容を入居者が理解しているかしていないかは知るよしもない。
そして、ある者は坂井への恐れからか、またある者は野宿生活や一般的な社会生活から比べれば今の方が随分ましだという思いからか、表だって不満を口にする者は誰一人いなかった。
また、役所の担当部署からしても、元々金銭感覚がおかしく、手に入った収入など数日で手元に残っていないという者が大半であるため、管理してもらえる者がいることの方が面倒なことも起きず、助かるというのが本音であろう。
「俺は公園を適当にうろつくから、お前は駅周辺でも駅の地下通路でも行ってみてくれ」
そう言った後
「ええか、いつも通りちゃんとした奴を探せよ、ちゃんとした奴を」
坂井は勇也の耳元で囁き、先にアパートを出た。
「ちゃんとした奴」とは銭勘定に疎く、内容も理解せず契約書等の書類にサインをし、この施設での生活に文句を言わない人物を暗に意味している。
「優ちゃん」
坂井がアパートから出るやいなや入居者の一人が優也のことを呼んだ。
(つづく)
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