見出し画像

小説 流転の徒(その3)

 優也は駅付近に向かう途中、亀山の身の上話を思い出していた。
 亀山は中学を卒業してから60歳手前になるまで、ずっと新聞配達員をしてきたが、IT化社会の波にのまれ、勤め先の新聞販売店が廃業したことにより職を失った。新しい就職先を探してはみたものの、職歴、年齢などの理由でなかなか採用してもらえず、借りていたアパートも退去せざるを得なくなり、ホームレス生活を送ることとなった。
 電車の中で隣人に肘がぶつかることを気にしながら紙面を捲らなくても、スマートフォンさえあれば指先一つでページが捲られる時代であり、紙の新聞を購読する人は減少傾向にある。便利な世の中になることはもちろん良いことだが、その反面こうした失業者を生むのも事実である。
 優也はその話を聞いた時、亀山という一人の人物を通して、社会の光と闇を現実のものとして実感したことを覚えている。
 はたと今に意識が戻ると既に駅の近くまで来ていた。
 通勤ラッシュの時間帯も一段落し、昼前の買い物をするにはまだ少し早いかなという時間帯であり、駅前は人通りもまばらであった。
駅周辺や駅の地下通路で生活しているホームレスは明らかに減ってきているが、それでもまだ時折姿を見かけることもある。
 ホームレスの減少は、民間および公共団体の自立支援事業が成果を上げているともとれるが、ホームレスの高齢化、自殺者の増加、ネットカフェ滞在者の増加なども潜在しているのかもしれない。
 今日も何気なくうろついてはみるものの、それらしき人物は見当たらないようだ。
 坂井は近隣の公園をあたっているのだが、公園も同じような理由からなかなか見当たらない状況だ。
 「そろそろ戻るか」
今日もまた206号室に入居しそうな人物を見つけられそうもないので、優也は事務所に戻ることにした。
 事務所に戻ると坂井も帰っていた。
「あかんかったか。俺もや」
 優也と坂井は事業部の中で無料低額宿泊所「ユーカリ荘」の運営担当を任されているのだが、この係は施設長の杉本、庶務の藤田を含めて4名である。
 そのうち杉本と藤田は他の部門も兼務しているため、ユーカリ荘の入居者管理については実質上、坂井と優也が行っている。
 杉本は65歳を迎えようかという、細身の小柄で気弱そうな白髪交じりの男性であり、いかにもことなかれ主義で争い事を好まない雰囲気が全身から滲み出ている。
 老眼鏡をかけていることもあり、少し上目遣いで人を見るのが特徴的であった。
 数年間介護施設の施設長をしてきた彼が、どのような経緯で現在に至るかは不明であるが、理事長としては従順で不平不満を言いそうにない使い勝手の良い人間として雇用したことだけは想像できる。
 藤田の見た目は20代だが、実年齢は30歳を超えているらしい。やはり彼女も転職組で、以前は放課後デイサービスで児童支援員をしていた。
 学生時代はずっとソフトボール部に所属しており、実業団から声がかかるほどの実力を持つ。体育会系女子の典型的なイメージ通り、明朗快活な女性で歯に衣着せぬ物言いをし、時に坂井もたじろがせる。ショートヘアのの可愛らしい女性である。
 ユーカリ荘の入居者の健康状態などの現況を日誌に記入することも優也の仕事の一つだ。
 現況といってもここ数ヵ月は特別な変化があるわけでもなく、簡単に記入すれば終わる。
 坂井はそれにほとんど目を通さずサインをするだけだった。 
 藤田はにんまりしながら冗談まじりの口調で言った。
 「坂田さん、神代さんが書いた記録をまた読みもせずサインだけしたでしょ、いつもそうなんだから。読んでいなくても何かあったら連帯責任ですよ」
 坂田はまあまあとなだめる仕草をしながら答えた。
 「あのな梓ちゃん、優也の書く内容はだいたい分かるわけよ、それにこいつのことを信用しているからこそざっと目を通すだけでええっちゅうわけやな」(つづく)






 


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?