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映画『マティアス&マキシム』(2019)の感想

グザヴィエ・ドラン監督の『マティアス&マキシム』を映画館で観てきた。カナダ映画で、主な言語はフランス語である。

この記事を書きながら、グザヴィエ・ドラン監督が、マキシム役だと知り、また1989年生まれだと知り、驚愕している。

『たかが世界の終わり』で、絶望的なわかりあえなさ、ディスコミュニケーションを描いた、ドラン監督が、まだ若者であったことに驚いている。

この映画は、間違いなく恋愛映画であるが、恋愛がなかなか成立しない歯がゆさが主題である。

マティアスは、中産階級で、弁護士で出世街道まっしぐらである。知的で美しい婚約者もいる。両親は離婚しているが、貧しくはない。

一方のマキシムの家庭は貧しい。母親はドラッグ中毒で、長男のマキシムが後見人のような形で母親の面倒をみてきた。その家庭から逃れるためなのか、彼はオーストラリアへ旅立とうとしているところから、物語が始まる。出発の準備から、出発日までがストーリーの主軸である。

マティアスとマキシムは、幼馴染でお互いに惹かれあっていることには気が付いている。それに気が付かないふりをしているのは、幼い頃から一緒にいる近しい二人が恋をするのは、ある種の近親相姦を想起させることも一因であるように思われた。近親相姦はタブー視されて当然で、まさに禁忌ではないだろうか。

旅立つマキシムは二人の関係を言語化して整理したいと思っている。彼は区切りをつけたかった。

エリートのマティアスは、気持ちがぐちゃぐちゃなのである。マキシムと離れたくない。オーストラリアになんか行かないで。ただ、それを決して口にはしないし、説明もしない。ただ、行動のすべてが、恋する人間の愚かなふるまいなのである。

好きな人の一挙手一投足を目で追ってしまう。

好きな人を眺めて、にやにやしてしまう。

好きな人に似た人を街で見かけて立ち止まってしまう。

好きな人に会ってもそっけない態度を取ってしまう。

好きな人に意地悪や嫌がらせをしてしまう。

素直に好きだと言えなくて、もたもたして、突然キレたりする。

傍から見ると、行動に一貫性や合理性がなくて、整合性がとれない。でも、それが恋である。これは、恋をしたことがある人、片思いをされたことがある人なら、身に覚えがあるのではないか。

恋に気づかないふりをして、困り果てているのはマティアスのほうなのである。恋に身悶えをして湖をクロールで往復してしまったり、マキシムがほかの友達と楽しそうにしているところに嫉妬してパーティーのゲームに水を差したり、手伝いをサボってみたり、と非常に子どもじみている。

マティアスは、友情以上の感情を持っていて、そのことを自覚しているが、一歩踏み出す勇気はない。自分はヘテロセクシャルであるはずだし、婚約者もいるし、相手は幼馴染だし、これからオーストラリアに旅立ってしまうし、と言い訳はいくらでもできる。

この感じ、知っている。というか、大人になって、恋をすれば、まったく障壁のない恋というのは、なかなかない。

好きになった人に婚約者がいたり、結婚していたり、子どもがいたり、年の差があったり、立場が違ったり、無職だったり、浮気者だったり、お金にだらしなかったり、と恋に至らない恋は、存外に多いのではないか。

そう、私たちは恋ができない理由をいくらでも並べ立てることができる。異性愛者であっても、同性愛者であっても、悩みの種類というのは似たり寄ったりなのではないかと思った。

この映画は、マティアスの言い訳の羅列であるとも言える。そういう意味では、普遍的なごく普通の「恋」が描かれている。

そして、恋をすると、人はどこまでも愚かになる。インテリなはずの自分が道を踏み外す。踏み外してもいいのだと、トロントからやってきたマカフィー弁護士は言う。我々は動物に過ぎないのだ、と。

誰かを好きになるのは、いいものだ。しかし、それは日々の暮らしとの食い合わせが悪い。恋は日常を壊す。私たちは怠惰なので、恋をしたあとの面倒さに怯えるのだ。

でも、こういう映画を観ると、何度でも愚かになって、これから何度でも恋に落ちて、苦しみたいとも思ってしまったりもする。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!