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映画『VILLE NEUVE 新しい街 ヴィル・ヌーヴ』(2018)の感想

フェリックス・デュフール=ラペリエール監督の『VILLE NEUVE 新しい街 ヴィル・ヌーヴ』(2018)を映画館で観てきた。カナダ映画である。

ケベックの2回の独立運動が物語の軸にある。

恥ずかしながら、カナダの歴史について、ほとんど知らない。ただ、ケベックではフランス語が公用語で、フランスより古いフランス語が使われている、ということだけは知っていた。

白黒の水墨画のようなアニメーションで、色鮮やかではないが、昨今のCG映画と比べて、情報量が少ない、というような印象はなかった。むしろ、削ぎ落された、厳選された描写で、疲れさせられた。

中年男女の顔のしわやたるみ、指のしわ、おなかの贅肉、垂れたお尻などが、きちんと線として描かれる。日本のアニメーションでは描写されない人間の老い、ある種の現実が省略されていない。だから、情報量は多いぐらいに感じられる。

元夫婦の距離感も微妙である。夫は妻に対して、家族に対して、未練がある。妻の方は、そうでもない。夫を無視するほどではないが、情熱はない。ただ、縁を切ることはできないような予感を抱えている。

「人生は満杯だ。すべてクソだ」というような絶望や倦怠も描かれるが、違和感はない。フランス映画にはよくある描写で、嫌な感じはしない。この疲労感は、私だけが抱えている問題ではないと安堵できる。

そして、私はフランス語を解さないが、フランス語の美しさはわかる。アニメーション自体は登場人物が主体で、背景も最小限で、BGMも基本的には効果音だけなのだ。音として、フランス語が迫ってくる。フランス語の音が際立つのだ。

フランス語がわかる人、フランス語話者がうらやましい。カナダのフランス語や、カナダの独特の言い回しなども、あるのだろうから、また違う観点で楽しめるだろう。

ここ最近、英語を勉強しよう、という気持ちもあって、ハリウッド映画ばかりチェックしていたが、やはり映画は他文化・異文化への扉だと思う。気になる映画は字幕が付いていれば、どんどん観に行かなければもったいない、とあらためて思ったりもした。この映画を見なければ、カナダの歴史を知らないことにすら、気が付かなったのだから。

そして、映画を観られるタイミングも逃してはいけない、と最近思う。疲れていたり、体調不良だったり、滅入っていたりすると、すぐに映画どころではなくなってしまう。気力と体力があるとき、行けるときに行かないと。気になった映画が、いつか見られるとは限らないし、いつまで生きているのかもわからない。だから、自分の脳みそが反応したら、見に行くべきなのだ。食べたい、と思ったものも、すぐ食べたほうがいい。食欲も常にあるわけではない。

人生で何かに夢中になったり、集中できるのは、一時(いっとき)だけだったりする。それは、諸々の条件がクリアされていてはじめてできることなのだ。自由になる時間があるときは、それを使ったほうがいい。

経済的に不安定なとき、私はお金がまったく使えなかった。お金を稼ぐことの大変さが身に染みてわかっているせいで、お金が怖くて使えなかった。実際、お金を楽しく使う時間も、精神的な余裕もなかった。それに加え、遊んだら罰が当たるのではないかと思っていた。今も心のどこかでそう思っているが、それには蓋をしている。

それはどうしてかというと、高校生の頃、無理して観に行って理解できなかった映画や徹夜で読んだミステリー小説をふいに思い出したりするとき、私はそれらに支えられている、と感じることがある。

私たちは物語だけを観ているわけではない。それらを作った創作者の意図や衝動も含めて作品を鑑賞している。それは、今を生きることに繋がっているような気がする。そして、未来の自分の拠り所や支えになるかもしれないとも思う。人生は文化的に豊かであるべきなのだ。いつか私が倒れたとき、起き上がるときのエネルギーになってくれるかもしれない。

同時代の人々の作品を観ることは、手紙を受け取る、ということなのだ。こんな風にwebに感想を書いたり、知人と話したりすることが、返事に相当する。たくさんの手紙を受け取り、返事を書いていきたい。できれば、私の手紙も誰かに届けたい。

ああ、本当に時間がない。時間というより、体力の問題なのだが、集中力は有限である。これを肝に銘じておかないと、SNSで人生終わっちゃうよ。自戒を込めて。


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