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自分をわかってほしい、という衝動

若い頃は、自分をわかってほしい、という気持ちが強すぎた。

わかってもらえないと「あいつは馬鹿なのか」と本気で他人に怒っていた。

今は、その気持ちが薄れている。他人にも、自分にも期待しなくなっている。

他人をわかろうとする気持ちも薄れてきている。

人はある段階に達すると考え方が固定してしまい、そのあとに変化はしないのではないか、というようなあきらめもある。

それでいいのだけれど、寂しいことでもある。

数年前、二十歳前後の大変感じの良い男の子と話す機会があった。二人の青年と話したのだが、別々の場面でまったく同じことを言っていたので驚いた。

友達とはどんな話をするの? とわたしは何の気なしに質問した。

彼らは「友達と大事な話はしない」と言った。ゲームの話、ご飯の話、共通の友人のうわさ話、旅行の話をするぐらいで、政治の話も、家族の話も、人生の話もしない、と言った。

友達を用途で使い分けることは当たり前、そして本音を話さないことに慣れているようだった。その場だけの付き合いだと割り切っているような感じもした。彼らは若かったが、人生においてすれ違うだけの人と、そうでない人をはっきり分けることができていたのかもしれない。

わたしは、そういうものかと思いながら、うなずいた。

わたしの若い頃(わたしという個人限定)は、むしろ、大事な話ばかりをしたがっていた。もっと、どうでもいい話をして、つながりを維持する努力をすればよかったのかな、とも思う。

そうすれば、五年後、十年後に会うことができる。

今、わたしの場合、誰にも会いたくないし、向こうだってわたしに会いたくもないだろう。

きっと、彼らにとって、わたしは「我が強く、はっきりし過ぎた人」だったと思われている。面倒くさい奴で、付き合いやすくはなかった。

ぶつかったり、喧嘩をしたり、気まずくなって、縁が切れていった。

もっと、ある意味、どうでもいい友達になれたら、よかったのかな。ゆるーく繋がれたらよかったのにな、と今更ながらに思う。

わたしと縁を切った人、わたしに縁を切られた人たちが、元気でいてくれたら、とは思わない。それなりに、こちらも傷ついているので、そこそこ苦しみながら生きていてほしいと思う(笑)

でも、親子でも夫婦でもお互いに考えていることがわからないというのは、よくある話だ。

わたしは誰かと一緒にいることを目的にしたことはない。やはり、何かを共有したいので、いろいろ話すことになる。でも、いろいろ話すと、ズレや違いが露になってしまう。

大事なことは話さない。楽しいことだけ、楽しい時間だけを共有する。雑談だけでいい。そういう器用さを持っている人が、この世にはたくさんいる。

わたしは今、それが欲しいような、欲しくないような、微妙なところにいる。中年の寂寥と悲哀といえるかもしれない。

顧客がお金を支払い、コミュニケーションをする商売が、なぜ儲かるのか。話を聞いてもらえる、それは人間にとって大事なことで、だから金を払う。そして、サービス業の人は反論したくても、客には反論できない。

お金を介在させて、お互いに、力を出さない、力を出せないコミュニケーションって最高じゃん、とは、やっぱり言えないんだよな。


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