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#読書感想文 『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』

カトリーン・マルサルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? これからの経済と女性の話』を読んだ。翻訳は高橋璃子さん、河出書房新社より2021年11月に出版された本である。

本書は、女性がいかに経済や経済学から疎外されてきたのかを経済学の諸説を引用しつつ論じることを目的としている。残念ながら、疎外されているのは事実であり、統計でも証明もされているのだが、なかなか変わっていかない現実がある。

タイトルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』の答えは、アダム・スミスのお母さん(マーガレット・ダグラス)、ということになる。アダム・スミスは、生涯独身で、彼の面倒を見ていたのはお母さんなのだという(p.26)。死ぬまで息子の世話をし続けた彼女の労働は、GDPにはカウントされない。家事労働などは無償労働で、アンペイド・ワークと呼ばれ、イヴァン・イリイチは「シャドウワーク(影の仕事)」と名付けた。とにかく、お金にならない労働のことを指す。

(この文を書きながら、いわゆる「ていねいな暮らし」って、やりすぎると自分で自分の首を絞める行為なのではないかと思ったりもした)

アダム・スミスといえば、『国富論』の中で「神の見えざる手」という考えを提唱した人である。自由放任主義の市場原理主義者たちは「市場は万能なのだから、何か行き過ぎや問題があれば、神様が勝手に調整してくれるよ」とのたまわっていた。しかし、神様はいちいち調整などしてくれないし、自浄作用もないことがわかっている。トリクルダウン(おこぼれ効果)も嘘だった。金持ちは富を食べこぼすことなく、どんどん肥えていく。「神の見えざる手」は単なる思想で、科学ではない。だからこそ、あらゆる人たちに引用(利用)されてきたのだろう。

経済学とは愛の節約を研究する学問(p.42)で、愛は希少である一方、利己心は限りない(p.19)と言われれば、そんなものかと思う。そうか、愛は溢れてなどいないのか。でも、愛を理由に女性は家事労働とケア労働をさせられてきた歴史がある。

女性は働いているが、その多くの労働には賃金が支払われていない。女性の管理職の少なさからもわかるように、女性の成功者も少ない。超富裕層の女性は財産を相続した人が多く、自力で成功した人はまだ少ない(p.183)のが現状だという。そして、女性の超富裕層が多い社会ほど世代間の所得流動性が低い(低所得層と高所得層の入れ替わりが少ない)傾向がある(p.184)。まあ、女性のお金持ちがパリス・ヒルトンしかいないような国をイメージすればいいのかもしれない。

ロバート・H・ネルソンは『宗教としての経済学』で、経済学者の仕事は、経済発展こそが救済への道であると民衆に説くことだ、と述べているという(p.231)。そう言われれば、いろんなことに合点がいく。経済が、金が、いかに偉大であるかを説く人は多く、金を見せびらかす人も多い。財政破綻をするから日本の増税は待ったなしと脅迫してくる人もいる。拝金主義者は軽蔑されるが、経済に無関係でいられる人は一人もいない。確かにお金は宗教だ。(そういえば、金を集めない宗教もない)わたしの行動も仕事も生活も、それに大きく左右されている。

しかし、物事はそう単純ではない。経済で救える人もいるが、救えない人もいる。人はお金があっても寂しさで死ぬし、世話をしてもらえない赤ん坊も死んでしまう(p.232)と著者は述べる。

 何を依存と呼び、誰が誰に寄生していると見るのか。これはいつでも政治的な問題だ。アダム・スミスが母親を養っていたのか、それとも母親がアダム・スミスの面倒を見ていたのか?

 本当のことをいえば、私たちはみんな誰かに依存している。生産する人と消費する人をはっきり切り分けることはできない。人はお互いに対して責任を負っている。どんなに否定したくても、自分が全体の中で生かされている事実から逃れることはできない

『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』p.244

社会の中で生きている以上、わたしたちは相互依存していることを忘れてはならない。そして、著者は、女が男のように振る舞ったり、互いに蹴落とす競争を加速させることがゴールでない、と述べる。そして、キャリアか出産か、の二者択一を突きつければ多くの人はキャリアを選ぶ(p.257)という。二者択一がまずかったのである。

エピローグの二人の子どもを車中に置き去りにして逮捕されたアメリカ人女性の話(p.258)には驚いた。彼女は面接当日にベビーシッターにキャンセルをされてしまい、やむなく車中に子どもを置いたまま、面接を受けていたのだ。彼女はシングルマザーで、子どもとの生活のためにどうしても仕事が欲しかったのだ。社会の矛盾と個人の矛盾が絡み合うと、その絡まった糸をほどくのはそうたやすいことではない。

市場はあらゆるものに正しい価格をつける機械ではない。投資家のジョージ・ソロスはむしろ逆のことを言っている。市場は、つねにまちがっているのだと。人はまちがった知識をもとに投資をおこない、その完璧とはいえない行動が市場を動かしていく。この事情を理解した投資家だけがジョージ・ソロスのような大金持ちになれるのだ。少なくとも、ソロス本人は、そう主張する。

『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』p.109

経済はよくわからないものだし、人間は感情で動くし、妥当性などあってないようなものだ。このことを頭に入れておかないと、大きく見誤りそうな気がする。経済は正しくなんかないのだ。人種差別も、性差別も正しくなどない。女性が低賃金であることに正当性などない。わたしは数字が全然読めないのだけれど、数字で騙そうとしてくる人には気を付けようと改めて思った。

訳者あとがきによれば、この本がスウェーデンで出版されたのは2011年で、2015年にはイギリスのガーディアンの年間ベスト本にランクインしていたのだという。日本で出版されたのは2021年なので、世界との時差が六年ぐらいあるではないか。日本の編集者たちがフェミニズムで鈍感であるのか。あるいは海外の出版物の目利きが減っているのか。単純に予算が足りなかったのか。真実はわからない。しかし、日本の出版文化にはあまり余剰(余裕)がなく、カツカツなのだなあ、と少し悲しくなった。

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