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どんどん自分に戻っていく

みなさま、ごきげんよう。

失業することが決まっている佐藤芽衣です。

一身上の都合による自己都合退職ということになっていますが、本当のところはパワハラが理由です(笑)

なんてことをにやにやしながら書けるぐらいには回復してきた。

そして、ちょっとわくわくし始めている。

職場にこの身を捧げている(社畜)のときは「近頃、友達もめっきり減ってしまったし、親とも絶縁状態だし、職場がなくなったら、わたしの人間関係は消滅。孤独死が待っている!」と自分で自分を追い込んでいた。

「ここでうまくいかなくなったら、おまえはおしまいだ!」と心の中のデーモン閣下に脅されていたのである。

いざ、失業すると決まったら、「別に一人でも大丈夫じゃね?」という心持ちになっているのだから、人間不思議なものである。

それは適応能力なのか、かっこよさげに言えば、レジリエンス(resilience)にあたるのかもしれない。

というわけで、わたしは、職業(役割)を失う。

新たに付与されるわたしの社会的な身分は「無職」である。アンケートの職業欄で、一番最後にある、あれだ。いやあ、わなわなするわ。

今は、そこに煌めきすら感じる。藤井風くんの「きらり」をBGMにして、この記事を読んでほしい。

ここ最近の休日は、家でコーヒーを飲みながら、毎日2,000字ぐらいの日記を書いたり、noteの記事を書いたり、好きなテレビ番組の放送を心待ちにしたり、本をよく読んでいる。

明日(未来)のことを心配しなくてもいい、という幸福を知る。ある種の緊張感から解放された。

仕事をしていれば、大なり小なり、責任は伴う。朝、起きて、身なりを整えるところから、仕事は始まるのである。いや、就寝する時点で、もう仕事は始まっているのだ。

だから、心置きなく、何かを楽しんだり、夢中になったりできずにいた。

「仕事があるから」と自分の行動や思考に、無意識のうちに制限をかけていたようだ。

(番組とか時期は覚えていないので申し訳ないのだが)テレビでバカリズムさんが「休日は何をしているんですか」と質問され、「次の仕事を待っています。仕事待ちです」と答えていて、「ああ、私も同じだな」と思った記憶がある。

明日の仕事のため、体調を整え、仕事の準備をする。遊びはほどほどにしようとする。そんなときは、体力を使わないようにと、ずるずるベッドの上で、スマホをいじるので余計に疲れていく。そして、平日仕事で疲労困憊になるのは致し方ない、という社畜の鏡であった。

そんな自分がいなくなるので、社会的じゃないほうの自分が戻ってきた。

重しが取れて、身も心も軽くなった。そして、日に日に、財布も軽くなっていくのだろう。

責任のない仕事はつまらない、というのは事実だが、責任が常にまとわりつき、プレッシャーにもなっていた。

わたしは、何も期待されず、何も要求されず、どこにも所属していない。

もちろん、恐怖もあるのだが、それすら楽しみたい。

これまでわたしは、「独身で自由過ぎるのではなかろうか」とうんざりしていたのだが、全然自由ではなかった。

自分の認識では「自由」だったのだが、仕事に行かなくていい、となったら、読書も、文章を書く作業も、英語の勉強なんかも、サクサク進むし、以前より、ずっと楽しい。

「ああ、楽しい。わたし、これをやっていれば、結構幸せじゃん。」と思えている。仕事をしていない余暇の時間が「自由」だと思っていたが、魂は全然自由ではなかったのだろう。まあ、もちろん、端的に言ってしまえば、自縄自縛というやつなのだけれど。

小学生時代の放課後の自分、学生時代の暇なときの自分が戻ってきたような感じである。

「あ、久しぶりじゃん。元気だった?」

「元気だよ。今まで、なんで呼んでくれなかったの?」

「ちょっと忙しくて」

「ふーん。これから暇になるから、私がいてよかったね」

「本当にね」

自分の本質が戻ってきて、そして、新しい自分になっていくのだろう。もしかしたら、勤勉ではなく、緊張感もなく、怠惰な自分かもしれないが、無理をしていた反動なのだと思えば、不思議ではない。

お金のことを過剰に心配していたのも、また事実である。ようやっと「今」を生きられそうだ。

「中年と無職」「中年の無職」って、どちらも目も当てられない言葉だけど、全然平気!

君、たくさん遊んでいいんだよ、と自分に許可を出そうと思う。




チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!