痛いほど好き

 宇多田ヒカル曰く、「誰かを失ったとき痛いと感じるのは、元々あった痛みをその人が抑えてくれていたから」だという。なるほどなあ、と思う一方で、少なくとも私自身はそうじゃないな、とも思う。

  私は一定の「好きな男性」像を持っていない。年齢も見た目も内面も、「こういう人が好き」というのを言い表すのが難しい。かといって「好きになった人がタイプです!」という感じかといえばそうでもない。
 しかし、ざっくりと表現するなら「『自分がこの人になりたい』と思える人」がタイプだといえるような気がする。ただ単に「尊敬できる人」ではない。私にない才能や頭脳や優れた人格などを持っていて、「こうなりたい」と思う男性に惹かれることが多い。
 
 更に言うと、私は好きになった人に「なろうとする」傾向がある。つまり、その人の行動をトレースすることを好む。私はいわゆるオタクではないが、これは一種のオタク的な行動と言えるかもしれない――スポーツ漫画を読んでそのスポーツを始めたり、音楽アニメをみて楽器をしたり、というのと似ている。スポーツや楽器は敷居が高いけれど、嗜好ならより簡単に真似ができる。その人がよく食べるお菓子を自分も食べたり、よく聴くというアーティストを聴いたり。同じボールペンを使ったり、口癖をパクったり。(イタいですね。自覚はあります。)
 はじめのうち、そんな風に好きな人をなぞることは、私に高揚感をもたらす。私のメンタリティはオタク的だと書いたが、もしかするとこの気持ちはコスプレイヤーに近いかもしれない。憧れの人に、自分がほんの僅かでも近づけているという実感が胸を高鳴らせる。日常に小さな楽しみを見つけると、人生の色合いが一段階明るくなる。
 けれど、その高揚は長くは続かない。恋の行き道に関わりなく、他人の習慣を続けていくうちに、それはいつしか自分自身に溶け込んで、淡々とした日常の一部になるからだ。ふときっかけを思い出すと、「ああ、あの人が好きだったからか」と気づくような趣味がいくつかある。盛り上がるような気持ちこそ失っているが、これは愛の最終形のひとつであると思う。身体や脳に、愛した人の欠片がいくつも埋め込まれているようなものだ。私にとっては、とても素敵なことだと感じる。
 もちろん、恋をした相手に限らない。家族や友人や、好きな芸能人、時にはほんの短期間の関わりしかなかった人たちからもらった欠片もある。私は、色とりどりの「誰かの欠片」で出来たモザイクだ。そう言うと、自分というものがないように聞こえるけれど、そうではない。自分の性格とか過去とか、そんなものでできた「核」はたしかにあって、その周りがカラフルなガラスで飾られているようなイメージだ。自分自身が光を放てば、周りに虹色の影が落ちる。

 私はそれを誇りに思っているけど、時折痛みを引き起こすことがある。それは、その欠片の元の持ち主ともう一度会いたいと願うとき、その中でも特に、もう会えないと分かっているときだ。手を伸ばしたり、歩き出そうとしたりすると、尖った部分が身体のどこかに突き刺さってしまう。相手がもう手の届かないところにいると分かっていて、私はさらに遠くまで手を伸ばす。けれど、頑張れば頑張るほどに痛みはさらに強くなる。  仕方ないから、今度はその欠片を捨ててしまおうとする。きっぱりと捨て去って忘れてしまえばもう痛くないはずだから。
 しかしそう簡単には行かない。私の肉体に埋め込まれたそれを取り除く――リアルならば外科的手術であろうそれもまた、激しい痛みを伴う。離れたくない、忘れてしまいたくないと心が叫ぶ。楽しい記憶も、辛い記憶も、「あなた」という存在が全て、私とひとつになっているから。捨ててしまわないといつまでも苦痛を残すままなのに、捨てるならば、自らの肉をも切る耐えきれない激痛を乗りこえなければならない。大切な人を失ったとき、ひとが音楽を聴いたり、髪を切ったり、絵や文章を書いたりするのは、きっとそのための麻酔のようなものなのだろう。痛みを紛らわせながら、忘れるべきその存在を体から切り離していく。

 私にとって、家族も友人もかつて愛した人も、全員が少しずつ私の身体の一部だ。だから、別れの時こんなに痛いのだと思う。今も私は、ある欠片を摘出している最中だ。とてもつらくて、難航している。でも、これが私にとっては必要なことなのだ。空いた穴にいつか他の欠片を埋めて、幸せな色で彩れるように。  

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