見出し画像

被災地、わたしたちはこう過ごした 神戸③

家の前から、全体を眺めると、斜めに傾いている。
連なった4軒の一番端の家は、路地に面しているので、
一番傾きが大きい。
家に帰ってきた父が、長い木の棒を運んできた。
その木で、路地に面した一番端の家につっかい棒をした。
長い木は、倒壊した家屋から拝借してきたらしい。
もうぺっしゃんこの家だから、利用させてもらった。
少し申し訳なさを感じるのか、
「ちょっと借りるで。許してなー。」
とちゃんと言ったでと、父が言った。

3本の木で、なんとか4軒家の傾きは、止まっていた。

隣人が、父のこの咄嗟な判断と、行動力を絶賛していた。
普通なら、思いつかないし、思っても遠慮してやらない行動だ。
うちの父のサバイバル力はすごいといつも思う。

父は、瀬戸内海の小さな島で生まれ、
学校よりも、海や山を駆け巡って育ったそうだ。
青年になって、漁師の船で働いた時、船が転覆したが、
生き残った。
そんなサバイバル力が、いろんな場面で垣間見える。
字もうまく書けないし、計算も苦手だが、
修理などは、自分で何でもやってしまう。
そんな父は、青年期に神戸にやって来て、
お豆腐屋さんの見習いになり、
母と結婚してから、独立し、豆腐店を開店した。

父は、地震が発生してからすぐ、いろいろ回っているうちに、何人の人に、
「助けて、家族が、崩れた家の下敷きになってる」と
声をかけられては、助けようとしてたようだ。
この時は、ご近所さんで助け合うしか道がない。
警察も消防も来られないのだから。
けど、ご近所さんだけでどうもできない所もあって、
諦めるしかないことがほとんどだった。

この時代、携帯電話はない。
家の電話も繋がらない。通信はすべて使えない。

おかしな事に、こんな時でも、仕事先への連絡を入れなければと
考えるものだ。
わたしは、この日、派遣の仕事で、大阪の堺市まで行く事になっていた。
行くことが出来ない事を、派遣先に連絡しなければと考えるのだ。
近くに、公衆電話がないかと探しまくった。
やっと10分くらいのところに、1個の薄緑の公衆電話を見つけた。
もうすでに、人々が並んでいた。
やっと、連絡を入れると、大阪の相手の方は、
何を言ってるの?という反応だった。
地震はあったが、来れないってどういうこと?という感じ。
その時は、こんな凄いことにになっているとは、
大阪の人は、知らなかったようだ。
メディアで、大々的に各地の被害が映し出されるのに、
時差があった。


わたしたちの町は、長田区の南側で、家屋の倒壊が激しい。
この時は、まだ、火災は起きていない。

多くの人が、近くの小学校に避難を始めた頃、
わたしたちは、避難しなかった。
なぜだろう。
父も母も、避難所に行こうとは言わなかったし、
わたしも、避難所に行く考えも全くなかった。
ただただ、家の近くにいた。
電気、ガス、水道、電話、全て機能しない。
真冬なのに、寒さも感じない、お腹も空かない。
悲しみや絶望とか、そんなことも頭に浮かんでこない。
喪失感と、さあ、どうすればいいんだろうという風にしか、
何も思い浮かばない。
何回も家の中に入って確認したり、
何か使えるものがあるかとか
家の中にいると、何回も余震が起こり、
その度に、外に逃げ出す。
そんなことを繰り返していただけだ。

しばらくして、「そうだ、車はどうなっただろう」と思いついた。

歩いて5分くらいの所にあり、住宅の1階部分の車庫だけを借りていて、
そこに車を置いてある。
これも、昭和の名残りだろうか、借家の2階と1階の車庫を別々の人が
借りている。
この通りも、家屋がほとんど長屋形式の立ち具合で、
数軒がつながっている。木造だ。
歩いて、この通りに来た時、足がすくんだ。
家屋がほぼ、ぺっしゃんこに倒壊していた。
ところが、車庫の家は、幸いにも、ペシャンコになっていなかった。
車は助かっていた。
けれども、わたしは、車を出さなかった。
車庫のシャッターを開けて、支柱を外した途端に、
この家が、ペシャンと落ちるのではないかと怖くなって、
このまま、車は、ここに置いておこうと決心した。

その決心が、後になって、後悔になるのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?