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被災地、わたしたちはこうして過ごした 神戸②

1995年1月17日早朝5時46分、

自室で寝ていた私のおでこに、ドンという突き上げられる衝撃と共に

目覚まし時計が落ちてきた。

びっくりして体を起こした瞬間、家ごと激しく横揺れし始めた。

まるで、何か大きなものに、家を掴まれて、激しく振られているような。

家がギシギシ鳴っているのが聞こえた。

15秒近く揺らされ、動くこともできず、ただ布団をつかんでいるだけだった。

そして、揺れが止まった後の

シーーーーンとした静寂。

あんな静寂、今まで経験したことがなかった。

何が何だかわからずにいると、

一階で寝ていた父が、「おーい。だいじょうぶかあ?」

と声をかけてくれた。

「大丈夫やで。」と返事をしたら、

別室で寝ていた母も、「怖かったなあ。」

と返事をした。

真っ暗闇の中、恐る恐る歩いて、

そこら中、物がひっくり返っているのを感じながら、

母のいるところに移動して、窓を開けてみた。

外は夜が明け始めていて、明るくなっていた。

斜め向かいの家が、ペシャンコになって

2階が1階になっていたが、そんな状態のまま、

住人のおばさんが、窓から顔を出していた。

3軒先の交差点にある角の家は、

古い木造の家で、全部がぺっしゃんこで粉々になっていた。

ここに住んでいたおばさんは、もう無理かもしれない、

そう思った。

ご近所の人が、ゾロゾロと寝巻き姿のまま、コートやら

毛布を纏って、

歩いて2分もかからないところにある小学校に向かって

行っているのが見え始めた。

もう寒さなんかそんなに感じない。

それよりも、喪失感、終わったという感覚が

寒さよりも優っていた。


靴入れが2階においてあったので、履き物を探し、

ゆっくりと階段を降りていった。

1階に降りて、驚きで絶句した。食器棚が倒れ、

こたつの上に覆い被さっていた。

食器も何もかもが散乱していた。

父は、もう部屋にはいなかった。

外に出ていって、様子を見にいったらしい。

父は、町内会長を何十年もやってる人なので、

周囲を見回りに行ったようだ。

父はいつも、居間のこたつに深く入って寝ている。

狭い部屋なので、こたつのすぐ横に食器棚がある。

もし、こたつに深く入っていなかったら、

体の上に食器棚が倒れていたかもしれない。

そう思うと、父の運の良さに驚いた。

食器で怪我をしないように気をつけながら、

豆腐屋の店に出て、外に出ようとすると、

店舗によくあるサッシの引き戸が歪んで、開けられない。

父はどうやって出ていったんだ?

ガラスの部分が粉々になっていたから、きっとそこからか?

わたしは、なんとか引っ張ったり、押したりして、

なんとか開く戸を見つけて外に出た。

家は崩れなかった。

昭和時代の代表的な家の作り、長屋式に隣4軒が繋がっている形体が

幸いしたのか。

4軒に共通した梁が、なんとか頑張って耐えてくれている。

斜めに倒れているけれど、ペシャンコにはならなかった。

わたしは、家の前から、自宅を見つめていた。


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