神聖、或いは悪意

 寒い夜のことだ。暖かな赤提灯につられ、下町の大衆酒場にぶらり立ち寄り、熱燗を舐めていた。
 しばらくすると、耳まで隠れるような、たいそうな首巻きをしたみすぼらしい格好の翁が近寄ってきた。翁は、面白い話を聞かせるから、その代わりに酒を奢れと言う。浮浪者の多く住まうこの下町では特別珍しいことでは無い。
 特に金に困っていたわけでもない私は、面白い話であればそれで良し、つまらなくとも寂しさが紛れるならばそれで良し、と熱燗を追加した。

 とある山奥の村で奇病が起こった。身体中におできのようなものができ、まもなくそれは膿を内に溜め、出血を伴って潰れた。患者は日に日に弱っていき、やがて死に至る。その村は地理的に他の集落とは断絶されており、医療技術は未熟で、多くの村の人間が罹患した。

 その病は身体だけでなく、心も蝕んだ。日増しに醜くなる己の体への嫌悪と、いつ死ぬのかわからない不安で、体の崩壊を待たずして心が死ぬのだ。心の弱いものは首を括った。村の至るところで、死の願いがこだましていた。それはその村の悲鳴だった。

 三月ほど時が流れた頃、とある僧がその村を訪れた。
 僧は村の惨状を見るやいなや、村長に村の若い女を山に捧げろと告げた。これは山の神の祟りである。鎮めるにはそれしか方法がない、と言い残し、村を去った。
 村までたどり着くには険しく、多くの野生生物が棲む獣道を通らねばならない。長は、そんな場所に1人でやってきたその僧を信頼した。よほど旅慣れたものか、屈強なものか。はたまた神の加護を受けたような、そういった類の人間に違いないと踏んだのだ。

 村の多くの若い女が志願した。生贄であれなんであれ、病の苦痛から逃れたかったのだ。だが病に侵された、穢れたものでは意味が無いとも僧は言っていた。
 ある女が名乗り出た。長の娘だった。長は我が子可愛さで娘を患者に寄り付かせず、外出を禁じ、母屋に軟禁していたのだ。
 父が、そして自分が愛した村の窮地に、何もしてやれなかったことに、娘は責任感を感じていた。同時に、尊敬する父の、自分本位な優しさに腹を立てていた。自分も村の者たちを助け、元気付けてやりたかった。死にゆく村の様子を、ただ傍観することしかできない無力感が、娘を狂わせた。娘は父親の引き止める声を無視して、村奥の崖から身を投げた。
 明くる日、患者たちのおできはさっぱり消え去り、病は嘘のように消えてしまったという。

 やがて村は活気を取り戻した。そうしていくつか季節を巡った頃、ある僧が村を訪れた。あの僧だった。
 解決に至る事情を知らされていた村人たちは、僧を厚くもてなした。長を除いて。
 長からして見れば、愛娘が死んでしまう原因を作ったその僧が、この村の救世主といえども、憎くてたまらなかった。

 僧が村を去る前日、僧は長のもとを訪ねていた。長は表面的にはもてなしていたが、どうしてもその僧を許すことが出来なかった。
 去り際、長はその男を呼び止めた。
 なぜお前は事情を聞かずとも解決方法を知っていたのか。
 僧は表情も変えず、ただ聞いていた。
 お前のおかげで村は救われ、こうしてかつての生活を取り戻した。だが俺はお前を許しちゃいない。なぜ俺は娘を失わなければならなかったんだ。答えを教えてくれ。俺はお前が憎い。返答によっては、生きては返さぬ。
 怒りが収まらない長の手には、鉈が握られていた。もちろん殺意はあったが、その僧が高僧であることなど十分理解していた。答えはなくとも、己を諭してさえくれればそれで良かった。愛する娘を知らぬ間に追い込んでいた己を、許して欲しかった。
 僧は臆さぬ様子でゆったりと村長に近づいた。そして耳元で一言告げると、去っていった。
 程なくして、その長は村を去ったという。

 それからその村では何年かに1度、奇病が流行った。その度に村では若い女が生贄として、かの崖から奈落へと落とされ、その度に病は治まったという。
 不思議なことにどれだけ探そうとも遺体は見つからなかった。村の者の間では、自ら命を捧げると、神が情けをかけ、天国に召し寄せるのだと噂した。本当のところは獣に食われたのであろうが、どんな形であれ、人の死を肯定したかったのだ。

 今もその村があるのか訪ねたが、翁はかぶりを振った。
「よくできた話だが、そんな伝説めいた話を信じるほど酔っちゃいない。ただ面白かった。何かもう一つ、好きなものを頼むと良い。なに、値段なんて気にすることはない。それくらいの余裕はある」
 そう伝えると、翁は鱧を頼んだ。
「ありがてえ。海の魚はあんまり食ったことがなくてね。ところであんた、神を信じるかい。俺はこう見えて信心深いんだ」
「そういった類のものは信じないタチでね。俺は自分の目で見たものしか信じない。言ってはなんだが、あんたは今、神に見放されてるんじゃないか。そんななりで、どうして神を信じることができるんだ」
 そういうと、翁はにやりとして首巻きを外した。
「神といえど、良いものも悪いものもある。我々人間が何をしようとも、影響を及ぼすことなど出来ぬものは確かに居る。人智の及ばぬもの、触れようとせずとも避けることが出来ぬものが、この世に棲んで居る」
 あらわになった翁の耳は欠けており、そこには大型の獣かなにかの歯型が、くっきり残っていた。

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