私が見た南国の星 第5集「走馬灯のように」⑯

ホテル売却の話はなくなり、増築が計画されています。波乱に満ちた野村さんの海南島生活、すこし希望の光が見えた5年目が幕を閉じます。

5年目の終わり


 2004年も12月を迎え、ホテル売却の話も遠い昔の事になると思いながら、日々の業務に専念をしていた。その中で、流動資金不足に関しては、私自身の力に限界が来ていた。本社からの送金も出来ない状況の中で、銀行残高を確かめる日が多くなってきた。旅行客も少しずつ増えてはいたが、客室に露天風呂がついていないという事が理由で、近隣のホテルに予約を変更する旅行社が増えてきた。それでも、日本からの団体客は、わざわざ温泉浴と食事だけに来ていただくことが出来た。現地の各旅行社からは、
「日本人客には、あなたのホテルしか紹介する事が出来ません。いくら五星のホテルでも、やはり日本人が経営をして管理が行き届いているホテルには負けますよ。もっと、客室を増やせば、きっと利益も出るはずですから頑張って下さい」
と、励まされる日々だった。確かに、日本人客が来店される度、満足をされてお帰りだったと思ってはいたが、いくら接客に努力をしても、現実には利益が出ない状況だった。
 客室の増築に関して、現地の銀行から借り入れをする計画だったが、この問題についても簡単にはいかなかった。社長も口には出されなかったが、心痛な思いの日々を過ごされていたことだろう。そんな事を考えながら、私に出来る事は何でもしなければと自分に言い聞かせていた。
 この度、急に方向転換をしたホテルだったが、河本氏が増築に関しての設計を再び任されたのだった。ホテルがオープンしてから今日まで、河本氏も心穏やかではなかった事だろう。数年間のトラブルについて、精神的にも限界だったのではないかと、私は思っていた。彼は今回の売却には賛成をされていたので、思いもよらぬ増築に驚きを感じていたようだった。
「あなたが社長に変な事を言うから、社長も増築をする気になってしまったと思うよ」
帰国の時に河本氏から言われた言葉が、胸に刺さった。海南島へ来てから、何度も退職を考えて河本氏に相談したので、このように言われれば反論が出来なかった。
 この時は自分自身でも不思議なくらい、この七仙嶺の生活に生き甲斐を感じてきていたのだった。出来るものならば、このまま生涯をこの地で過ごしても悔いは無いと言えるくらい、この時の私は業務に燃えていた。この熱き思いは、口で説明が出来ないが、何もかも捨てて日本を離れた私だったので、最後まで自分を試してみたかった。売却の件は町中の噂となったが、それでも気丈に振舞っていられたのは、心の底から復帰を望んでいたからだった。誰から何を言われようと、社長を信じて最後まで満足の行く結末を迎えたかったのだ。だからこそ、今回の資金調達問題をどうにかしなければと必死だったのだ。
 そんな折、深セン市の鈴木女医から電話が掛かって来た。
「お久しぶりね、元気で頑張っていらっしゃいますか」
という、受話器の向こうから元気な女医の声が、何よりも励みになった。ちょうど、日本ではインフルエンザが流行していたので、日本人客の来店でインフルエンザが移っては大変だと、予防接種を勧められた。そして、女医も海南島の田舎で少し休養を考えているとの事だったので、嬉しいニュースだった。インフルエンザについては、広州総領事館からも邦人に対して案内があったので、鈴木女医の件を海南島日本人会へ連絡する事にした。女医は無償で健康診断をして下さると言われたので、日本人会の皆さんは感激をされていた。
 鈴木先生は25日の午後2時30分の飛行機で海口市の飛行場へ到着されるとの事だったので、日本人会の会長と共に出迎えをする事になった。25日はクリスマス、日本人会の皆さんも、
「嬉しいクリスマスプレゼントになりました」
と、喜んでいた。当日の朝、私は保亭県を出発して海口市へと向かった。そして、この日は阿浪の運転で、夕食後に鈴木先生と共に七仙嶺へ戻る予定だった。鈴木先生が到着をされてから、会長の配慮で「マンダリンホテル」の会議室で健康診断とインフルエンザの予防接種が行われた。一緒に同行された保険機関の職員と共に、健康に対するセミナーを開催して頂き、日本人会の皆さんも満足顔だった。
 夕食後、あわただしく海口市を出発して、七仙嶺のある温泉地へと向かった。道のりは高速道路と言っても、薄暗く視界も悪い状況だったが、阿浪の慎重な運転ぶりがありがたかった。海口市から3時間以上もかかるため、疲れが出てしまうのではと心配だったのだが、車中は久しぶりの会話に花が咲き、笑い声が絶えなかった。ホテルへ到着後、露天風呂に入られた女医と同行の方は、この自然と新鮮な空気に魅了されたと感動をされていた。時間もすでに11時過ぎだったが、露天風呂が気に入られて満足そうにされていたので、私も嬉しく思った。
 そして、朝早く起床して散歩をして、毎日の疲れを癒す事が出来たとおっしゃった。その言葉を聞いた時、私の悩みも解消したような気分になった。二日ほどの滞在を予定されていたが、深セン市の邦人から電話が入り急に戻らなければならなくなったようだった。
「ごめんなさいね。せっかく、のんびりしようと思っていたのですが、邦人の子供さんが昨日から高熱が出て、熱が思うように下がらないそうです。だから、戻らなければなりません。本当に残念ですが、医者の任務ですから仕方がありませんね」
という彼女の言葉に軽やかさとフットワークの軽さに「本当に凄いパワーだ」と心の中で呟いた。このエネルギーは、七仙嶺の源泉よりも効能があるかもしれない。そして、何よりも仕事に賭ける情熱が、彼女を支えていると思った。私も彼女に負けないくらいの精神力が必要だと、つくづく感じたのだった。そして、こんなパワーがあれば、どんな苦境にも耐えられるはずだし、満足出来る人生を送る事が出来ると羨ましくなった。女医は足早に、三亜空港から深セン市へと戻られた。
「今回は短い時間でしたが、この環境を拝見して、あなたの社長が夢を託された事は、よく理解できます。お金で買えないものを感じましたよ。それは人間の生命に深く関係するものです。一言で言えば、ここは安らぎの地でしょうね。そんな気がしました。社長には是非、この地でお会いしたいと願っています」
と、出発される前に言われた言葉が今でも忘れられない。鈴木先生の言葉には、都会で生活をしている人の苦労が感じられた。そして、この言葉は私にとっても今後の業務にプラスになったと思っている。自然の素晴らしさと、その環境の中で人間が暮らして行けると言う事は、とても幸せな事なのだ。そんな気がして、新たな勇気が湧いてきた私だった。  
 日本人である私が、この地で生活できると言う事は、誰もが経験できることではないので、感謝をしなければならないと思った。過ぎ行く五年間の海南島生活は、私の人生の中で数多くの感動を与えてくれた。私の人生の最後が、たとえ孤独であったとしても、海南島で過ごした日々の思い出が寂しさを紛らしてくれると信じている。そして、異国の地で得た経験は、きっと誰にも負けないくらいの精神力となって、私を支えてくれる事だろう。
 強がりばかり言って、自分に負けないように生きてきた人生だったが、七仙嶺や満天の星を眺めながら何度も流した涙を忘れる事は出来ない。その涙が、いつの日か、嬉しい涙に変わる事を祈って私の海南島生活五年が幕を閉じた。


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