見出し画像

私が見た南国の星 第4集「流れ星」④

 トラブルがあったことを忘れそうになる楽しい京都旅行のお話です。馮さんの楽しそうな様子が、手に取るように分かります。

京都旅行


 駅弁が食べ終わる頃には、新幹線は京都に到着した。私にとっては、京都は思い出の深い所だったので、とても懐かしく感じられた。京都駅からホテルまではタクシーに乗った。車窓から見える京都の町並みが昔と変わらず嬉しかった。馮さんが楽しそうに、
「お姉さん、あの建物は何ですか?」
と、子供のように尋ねる姿が可愛かった。ホテルに到着してから夜桜を見に行くつもりだったが、桜は既に散ってしまい、見られなかった。
東映太秦映画村や嵐山、そして金閣寺を案内して、夜は祇園の街など市内観光に出掛けた。観光バスに乗り、見知らぬ人たちとも交流ができたので、彼女も嬉しそうな様子だった。舞妓さんのいる祇園会館で日本舞踊を見たが、彼女は写真撮影ばかりをしていて踊りを見る暇がないようだった。久しぶりに見た舞妓さんの踊りは、昔と同じで日本の古都を思わせる雰囲気が漂っていた。
 祇園会館を出て、西陣織の古い町並みを歩き、ガイドさんの説明に耳を傾けていた。すると、彼女はいつの間にか、高齢者のご夫婦と息統合して写真撮影をしていた。声を掛けるとせっかくの雰囲気が壊れてしまうと思い、暫く様子を眺めていた。
夜の観光が終わり、ホテルへ戻った私たちは、旅の疲れも忘れて夜中まで話をしていた。
「馮さん、今日の観光は楽しかった?」
と彼女に尋ねると、 
「はい、京都は静かな良い所で気に入りました。でも、お姉さんは京都に詳しいですね」と、彼女に言われた私は、昔の数々の思い出話を聞かせた。
京都は親戚もあるので、中学生の頃友達と一緒に叔母の家で過ごした懐かしい思い出がある。叔母の家は、伏見稲荷神社の近くで、昔はこの町に舞妓さんがたくさん住んでいた。夕方になると、白塗り化粧をした綺麗な顔に、振袖と帯に飾られた舞妓さんの姿を見かけたものだ。「中学校を卒業したら舞妓になろう」と考えた時期もあった。京都を去る日にはいつも、「おきばりやす」と叔母から言われた言葉が嬉しかった。そんなことを思い出しながら京都の一夜が明けた。
 次の日、朝早くホテルを出発して、観光バスを停留所で待っていた。京都駅は昔とずいぶん変わっていたが、京都タワーは昔のままだった。
タワーを眺めていたらバスがやってきたので、急いでバスに乗り込み観光へと出発した。この日は春らしい良い天気で、寒いと思ってセーターを着て来たので、暑くて大変だった。バスの最初の目的地は、「平安神宮」だった。中庭では、舞妓さんと記念撮影をする学生の姿が目に映った。
それを見た馮さんは、「自分も舞妓さんと一緒に写真が撮りたい」と学生の群れに走って行った。舞妓さんの付き人は、人だかりになってしまったので、舞妓との写真撮影を拒否したが、
「お願いします!私は中国から来ましたので記念にお願いします」
と言うと、付き人さんは困った様子だったが、舞妓さんは、そんな馮さんの願いを受け入れてくれた。満足した彼女は、心も軽やかに神殿へと歩き出した。そんな彼女を見て私の方が楽しくなった。
平安神宮の参拝が済み、清水寺へと向かった。清水寺は一部修理中だったが、歴史ある寺なので観光客も大変多かった。韓国人ツアー客が通り過ぎた際に、
「大きな声だね!」
と、馮さんが言った。
「中国人は韓国人よりも声が大きいじゃないの」
と心の中で思ってしまった私だった。
「お姉さん、この寺は古いですね。舞台も高いし、ここから落ちれば死んじゃうわよね」と、舞台の上から下を覗き込んだ彼女は楽しそう。彼女の言葉を聞いた観光客も
「楽しい人ね」と、私に声を掛け笑って通り過ぎて行った。清水寺で滝の水を飲んだ彼女は、とても感動したらしく何度も滝の方へ足を運んでいた。
「美味しい水ね、中国とは全く違います。もう帰りたくないです」
と、冗談の連発にガイドも喜んでいた。私たちの観光バスに同乗されていた人たちは、彼女が中国人とは知らなかったようだった。
「えぇ、貴女は中国人?日本人かと思いました。日本語が上手ね」
そんな言葉をもらった彼女は、海南島のホテルを自慢げに話し出した。京都観光のバスガイドよりも面白い彼女の話を聞いて、この日の人気者になった。清水寺から次の目的地までの間に昼食タイムとなった。同じ観光コースの人たちと昼食をしながら、楽しい時間を過ごす事が出来た。
 午後は、最初の日に少し観光した嵐山で記念撮影だった。渡月橋では、私は疲れていて橋を渡りたくなかったのだが、彼女のために頑張って渡った。休憩所や茶店が目に入った私は、
「馮さん、ちょっと暑いから休憩しましょう。私、疲れてしまったから」
と彼女に本音を言った。二人で茶店の椅子に腰掛け、観光客の列を眺めながら、川のせせらぎを聞いていた。出発時間前に土産品を買い、バスの止まっている駐車場へと向かった。途中で買った手焼きせんべいを、二人で歩きながら食べたことが思い出される。嵐山での観光時間が長く、気がつけば夕方になっていた。バスに乗り夕食のレストランへ行くまでは、二人とも疲れてしまい道中ずっと眠ってしまった。
 夕食が済み、夜の観光は、修学旅行生たちと、太夫の「茶のお手前」や「口上」を聞き、参観を楽しんだ。
 全ての観光が終わりホテルへ戻った私たちは、疲れきっていたので、布団に入るとすぐに寝落ちしてしまった。
 次の朝はゆっくり身支度をして、ホテルの朝食を済ませてから京都駅へ向かった。新幹線の乗車時間は午前11時半だったので、時間が来るまで駅の構内にある郷土品を見て歩いた。新幹線に乗車して名古屋へ着いた後、彼女はデパートへ行きたいと言うので案内をした。翌朝には、日本を出国して海南島へ戻らなければならなかったので、何か買い物をしたかったのだろう。デパートでの買い物を済ませ、夜は本社の役員会に出席をするため、タクシーに乗って出かけた。

本社にて


 予定時間よりも早く社長が来られていたので、京都観光の感想や明日の出国状況などを説明した。やがて役員の方が全部揃い業務の話が始まった。会議は簡単な内容で終了となった。ところが、本社を出る前に副社長の松岡氏が、急に海南島へ行くと言われ驚いた。
「日程がわかり次第ご連絡を下さい」
と、言うと、
「もう、決まっています。今月の26日から5月3日で航空チケットを予約しました。韓国経由で参りますから宜しく!また、連絡をします」
淡々と説明をされ、出て行かれた。松岡氏のことは以前の管理者からも聞いていたが、簡単に言えば「ちょっと変わった方」のようだった。「どこが変わっているのか」の問題だが、性格がつかめないため誤解されやすいということらしい。そして、相手に不愉快な思いをさせるような言葉をズバッと言われる。正直だと言えば正直なのだろうが、やはり相手の気持ちになって言葉には気をつけてほしいと思う。しかし、相手は上司だから我慢も必要なのだが、私の気持ちも分かってほしかった。私の性格も、はっきりし過ぎる点が短所だと思っているが、彼とは少し違うタイプだと自分自身を分析している。松岡氏と私の間では、ホテル廃業までに数回トラブルが発生した。しかし、今では懐かしい思い出となって、私の海南生活には彼の存在がプラスになっていることだけは確かな事実だと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?