見出し画像

私が見た南国の星 第6集「最後の灯火」㉖

 ついに最終回になりました。いままで、読んでいただきありがとうございます。大きな病気をされた野村さんですが、今でもお元気でいらっしゃいますのでご安心ください。健康管理のため今年の8月に日本に帰国されていますが、春節の頃には海南島にお戻りになられるかと思います。
 野村さんから原稿をお預かりして、2年以上経ちましたが、こういう形で発表出来てよかったと思っています。この奮闘記の後も、本当に頑張っていらっしゃるので、続編を期待しています。

手術の日


 そんな私にも手術の日がやって来た。朝早くから起こされ、手術前の検査が始まった。腸の中を全て綺麗にしなければ手術は出来ないと脅され、二度の浣腸でやっと手術室に向かう事になった。手術室担当の看護師が私を迎えに来てくれた。
「さぁ、今から手術室へ行きましょう。手術室は4階ですが歩いて行きます」私は驚いた。テレビドラマのようにストレチャーで行くのだとばかり思っていたので、何だか気が抜けた気分だった。
「えぇ?歩いて行くのですか。今は確かに元気ですものねぇ」
すると看護師は、
「はい、歩きますよ。まだ手術は終っていませんからね」
まるで子供に話しているように優しかった。エレベーターで4階に降り、手術室へ向かった。手術室では、昨日病室へ説明に来られた麻酔科の医師が待機していた。私よりも緊張された様子に少し驚いた。でも、考えれば当たり前、麻酔で一つ間違えば、私は植物人間になるかもしれないだから。この時の私は、緊張感もなく看護師に従って手術台の上に乗った。手術室には、まだ執刀医の姿はなかった。麻酔の注射はとても痛く、思わず看護師の手を強く握っていた。きっと、看護師に悪いことをしたと思った。注射が終わると、麻酔科医の
「大きく息を吸ってください」
という声が聞こえた。思い切り息を吸った私は、その直後から意識が無くなったようだった。でも、私は遠くから「さぁ、ICUへ行きますよ。手術は終りました」というこが聞こえた。まさか、私の手術は途中で中断されたのかと思った。その時は、私も意識朦朧としていたのでICUに移動したのも記憶になかった。暫くして、私は手術が終わった事に気がついた。もう真夜中過ぎだった。身動きできなかったので、痛みが出た時にナースコールボタンを押した。何度も呼んでいたのに、若い男性の看護師は何もしてくれなかった。「ちょっと待ってください。別の人を呼んできますから」
手術前の説明と状況が違いすぎて腹立たしい気分になってきた。やっと、別の看護師が処置をしてくれましたが、どうしても納得できず文句を言った。すると、看護師から返ってきた言葉は、
「我々は三人で業務をしなければなりません。あなたの状況は別室のモニターで管理していますから心配しないでください」
不機嫌そうな言い方に、手術したばかりという事も忘れて爆発した。
「業務の事は私には関係ないです。私は説明を受けたとおり、痛いのでナースコールしたのです。どうして業務の出来ない看護師がICUに配属されているの」
その看護師は、私が神経質になっていたのを感じたのか、無言で立ち去った。翌朝、ICUの責任者と昼間の看護師が私のところへ来てくれた。私の立場を理解してくれた責任者は、泣きながら訴えている私に頭を下げて謝罪をしてくれた。そして、自分の身体の事も話してくれた。
「実は私も乳癌の手術を受けました。だから、あなたの苦しみは理解ができます。この度の事は、私の管理不足です。でも、正直に話して頂けて嬉しく思っています」
と、何度も謝罪をされた。私自身も、患者になって初めて病気の辛さを知った。入院をして、初めて医療関係者の大変さも理解ができた。

退院


 手術をしてから、医師や数多くの看護師に助けられながら回復へと向かっていた。こうして私は、約三週間後に退院することが出来た。退院は3月13日に決まった。しかし、二日前の11日には、東日本大震災が起こり日本中は大変なことになっていたのだった。ちょうど地震が発生した直後は、私も病院内を歩いていたので揺れを感じた。でも、その時はこんなに大きな災害になるとは思いもしなかった。
そんな時、私の退院する日がやってきた。婦人科病棟の皆さんへお礼を言いたかったのだが、ちょうど日曜日だったのでお会いすることが出来ず残念だった。私の担当だった松本さんが、エレベーターの所まで見送ってくれた。本当にお世話になっていたのに感謝の気持ちが上手く言えないまま、私は退院した。この病院とは、これからも長いお付き合いになることだろう。私の癌は、進行癌だったので、再発と転移が起こることも覚悟をしなければならない。だから、定期検診の時は心臓が破裂しそうな気持になる。結果を聞いて安心しても、次の検診では悪い結果が出るかもしれない。それは、どうしようもない試練なので、良くも悪くも定期健診を受けるしか延命はできないのだ。

その後


手術後、一年半が過ぎた。これまでに、何度も身体の異変が起きた。でも、私は今も生きている。手術後のリンパ浮腫や排尿障害にも負けず、自分と戦って生きてきた。こんな身体になっても私の居場所は、この海南島しかない。今思えば、自分だけの力で癌と戦ってきたわけではなかった。私を支えてくれた数多くの人がいたから、こうして今も命がある。今、私が癌に負けてしまったら、きっと私の人生は後悔で終わるだろう。
2012年、ロンドンオリンピックをテレビで観戦しながら、私は生きている喜びを感じていた。今も手術後の排尿障害は回復していないが、この状態も慣れてきたと感じている。ただ、怖いのはリンパ浮腫なので、蚊の多い海南島での生活では神経を使っている。
子宮頸癌という病気になって、今まで見えなかった人の心が良く見えるようになった。いつも親切にしてくれた人の中には、私の癌を知った途端に掌を返してきた人もいる。癌は人の心も変えてしまうものだと痛感した。
ものは考えよう、自分の先が見えて良かったとも思った。これから歩む道が暗くとも、小さな灯りを灯してくれる生き甲斐があればいい。人生を折り返すのではなく新たな出発をするのだ。海南島生活の中で味わった数多くの喜びや苦しみは、私にとって最大の財産になっていることだけは間違いない事実なのだから。そして、この年月は小さな灯りに照らされて生きてきたが、小さな灯りが最後の灯になっても私の灯した大切な明かりなのだ。あの夜空の下で、蛍の灯りを頼りに必死で生きてきた私の人生は、決して無駄ではなかった。
小さな灯り、それは私にとって穢れを知らない海南島の子供たちなのだ「この灯りを世界中に灯してみたい」、それが私の新しい課題になった。中国と日本の歴史的問題は、何年経っても傷跡は消えない。でも、「心に国境のない島」それはこの海南島ではないだろうか。今日まで私を支えてくれた海南島は永遠に存在してくれるに違いない。

「非常感謝!我愛海南島」
 
 
南国の織姫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?