第五十四話:梯梧の花
こんなにも美しい人に出会ったのは、初めてだった。
褐色の肌に煌めく銀色の髪。
瞳は蜜のように艶めく琥珀色。
鼻筋は新緑の山の上を、翼を広げて飛ぶ鷹のよう。
唇は雪の中懸命に咲く梅の花。
奪われた心は私の足を止め、この瞳を釘付けにした。
「……人間か?」
「あ、そ、そうです」
「珍しいな。こんなところに来るなど」
「……死のうと思って山に入ったんです。そうしたら、あなたが……」
「そうか。お前、名前は?」
「菊宸と申します」
「菊宸か。良い名だ。俺は梯梧。禍ツ鬼の王だ」
「……え、えええ! ま、まがつ……、き……」
「そうだ。今は、腹は減っていない。運がよかったな。俺に殺されずに済むぞ」
「……梯梧さんになら、喰われてもいいや」
「本当に死にたいのだな」
「うん」
「話すか?」
「聞いてくれます? 情けない話なんです……」
私はこともあろうか、禍ツ鬼の王、梯梧に出会い、死にたくなった経緯を話すことになった。
「私、実は皇族なのです」
私と妹の花信は、雪月花一族と呼ばれる貴族の中でも、もっとも悪名高い雪原家の男に両親を奪われた。
雪原家の裏切りに気づいていた父と叔母は、私と花信を乳母に預け、ひそかに京から脱出させた。
父が手を組んでいた地方豪族の家に引き取られた私たちは、再びこの手に皇位を奪還すべく、ありとあらゆる教育を施された。
特に、花信は美しさを磨くため、食事もしぐさも制限され、とても大変そうだった。
その一方で私に課せられたのは、血筋を保つこと。
「十五歳を迎えた日から、いろんな名家の女性と引き合わせられました。でも、ダメで。どんなに夜を重ねても、子供が出来ることはありませんでした」
毎夜行われる子作りは一年に及んだ。何の成果も現れないまま過ぎていく時間。
家の者たちは一度私のことを諦め、花信を入内させることに注力し始めた。
これは花信が私を救うため、わざとそう進言してくれたらしい。
「私は子すらもうけられぬ、役立たずなのです。次第に、そういう行為が苦痛になり、どんなに美しい女性を見ても、何とも思わなくなってしまいました」
それで、今この場にいる。
「俺で試してみるか。死ぬ前に」
「……へ?」
気付いたら、唇が重なっていた。甘く、脳まで痺れる感覚。
全身が熱く花開いたようで、あとはもう、心も身体も止めることが出来なかった。
人生で一番、幸せな夜。
それが、奇妙なことに、半年間続いた。
梯梧は会うたびに私を受け入れ、時に女性の身体になることもあった。
そんなある夜のこと。
「おい、菊宸。孕んだぞ。お前の子だ」
「……え」
心が甘くうずいた。
「俺は産むぞ。どうやら、俺は変わってしまったようだ」
「そ、それは……」
胸が高鳴る。どうにもできないほどの、高揚感。
「お前を愛している」
「わ、わわ、私もです!」
「ふふふ。それならいい」
神秘的な感覚だった。
一生で、今以上に誰かを愛せることなどないという、絶対的な自身すらあった。
それからも、毎日通った。大きくなっていく、。愛しいひとのお腹をさすり、睦あう日々。
そして生まれた子は、玉のように美しくて、梯梧によく似ていた。
「烏羽玉と名付けたいのだが、良いだろうか」
「もちろんです!」
それからほどなくして、梯梧は烏羽玉を連れて各地を遊説することになった。
彼は禍ツ鬼の王。一所にずっといられるほど暇ではないのである。
それに、このころ、私にも大変なことが起こっていた。・
一年前に入内した花信が、内裏を追い出されてしまったのである。簒奪を疑われて。
最初の作戦は失敗に終わってしまった。
それから十年、私と花信は自分たちの異変に気付いた。
歳をとらないのである。
十八歳の見た目から、何一つ変わらぬまま。
私たちを匿っていた豪族たちは気味悪がりながらも、「これは神仏の御意思だ!」と、より結束を強くしていった。
そしてさらに十年の月日が経ったある日、私のもとへ、烏羽玉がやってきた。
梯梧に似た耽美な魅力と、武人のような屈強さを持ち合わせた、素晴らしい男に育っていた。
「どうした?」
「父上が封印されました」
「……な、なぜ!」
「父上と出会ってから人間を食べなくなり、身体が弱っておいでだったのです。そこに、仙子族から杏守一族が皇族によって送り込まれ、戦いの末、封印されてしまいました。父上は最期まで、父上のことを案じておられました」
「そ、そんな……」
心が砕けてしまいそうだった。
世界が消え、視界から光が失われ、何もかもが瓦解していく。
「父上、私は父上から父上をお支えせよと言い使ってここに参りました。御身の血筋を今こそ再興するべきではありませんか?」
「血筋を……、再興……」
愛する梯梧を奪った皇族。両親を奪った皇族。
「やろうではないか。血を賭けた、復讐を!」
私は壊れてしまった。
この日から、私は花信を再び入内させるため、身分を隠し、暗躍し始めた。
詐欺師を雇い、身なりを整えさせ、朝廷の重役にまで押し上げるなど、工作は何十年にも及んだ。
花信の美しさは時を追うごとに磨きがかかり、入内するころには他の追随を許さぬほどになっていた。
入内は容易かった。
しかし、一つだけ問題が。
最初の子は女児で、次の子は流産してしまったのだ。
だが、私はあきらめなかった。
花信に妊娠継続を偽らせ、私が貴族の女との間に子をもうけたのだ。
うまくいった。
男の子を生んだ貴族の女は、残念ながら産後の肥立ちが悪いことにして、口封じすることに。
驚いたことにまったく罪悪感は沸かなかった。
花信には長めに宿下がりさせ、その後、産まれたばかりの男児を抱えて内裏に帰らせた。
皇帝の寵愛を周囲に知らしめるため、花信にはもう一度子をもうけさせるなどもした。
私は教育係として内裏に潜入し、息子にあらゆる教育を受けさせた。
それが最大の誤算だった。
愛してしまったのだ。大きな目で私を見つめる我が子を。
正当な血筋を残すために、将来皇位を奪還させるために作った子なのに。
私は、青犀の笑った顔も怒った顔も泣く顔も悲しそうな顔も喜ぶ顔も、すべて、愛おしいと思ってしまったのだ。
胸に巣食っていたどす黒い復讐心が解けていく。
息子には、皇位争いに関係ないところで、ただ平穏な素晴らしい生活を送ってほしいと願うまでになっていた。
そして自分は、愛する梯梧の元へ……。
でも、烏羽玉はそれを許さなかった。
烏羽玉は私の前から消えた。
花信と子供たちを連れて……。
そしておよそ十年後のある日、私は朝廷がひっくり返ったことを知ったのだった。
息子が皇帝になった。
烏羽玉はきっとこの国を潰しに来るだろう。
梯梧が私のために食べないでいてくれた人間を、好きなように殺して回るだろう。
それだけは、させてはならないと思った。
だから、私は本物の玉印と桃華文章を持って、梯梧の元へ行く。
この世界が、誰にも壊されることの無いよう、祈りながら。
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