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昨年の夏枯れたミニトマトを眺めながら

近頃は、自分でキャリアを切り開いていくことがますます急かされるし、やりたいことをやるのがいいという風潮もとても強い。
多かれ少なかれ、私もその影響を受けていて、びゅんびゅんと吹く「現代版キャリア論」強風に煽られている。

そんなわけで私自身、やりたいことリストはぶくぶくと広がっていくばかり。時々、アイディアにまみれた頭の中の整理に苦労している。

でも、やりたいを考えたり実行に移していく過程は、私という人間の土壌ができていくために必要不可欠な要素の一つでもあることを知っている。だから、やりたい衝動を適度にコントロールしつつも、やりたいを無邪気に発想しそれらを掴まえられている自分自身へ「かわいいな、こいつ。その調子だ。おまえのやりたいを掴まえ続けたまえ。」と思ったりする。

昨年私はずっとやりたいリストにあった1つを実行に移した。
それは農を始めてみること。

農をやりたいと考え始めてから、早10年は経った。
ちまちまと情報を集めてはいたが、実際に自分の手の届く範囲に、土と植物がある環境をつくるには至っていなかった。

さぁ、どこから始める?

何を栽培するかなど調べ始めたが、途中でらちがあかなくなった。
準備を考えるとますます実行できなくなってしまう性分を再認識し、今回は苗に始まり、ミニトマトの栽培に必要なものが一式揃ったキットを入手することにした。

苗をポットからフェルトプランターに移すとき、久々に土に触れた。


ぎゅっ。



ほろっ。

ふかふかとして、ちょっとだけ湿っている土は、強く握っても、カチコチにはならず豆腐を崩したような姿に戻る。
湿っぽい匂いには、懐かしささえ覚えた。
夏、弟が捕獲したカブトムシを入れていた虫かごみたいな匂い。

入手したミニトマトの苗は、すくすくと、順調に、成長した。
背丈が伸びるほどに、節も増え、途中からは支柱をつける。
「倒れないように。でも、のびのびとどうぞ。」
こんな心持ちで支柱をつけたり、調整したりした。


8月。
虫がつく。
蜘蛛の巣のような網がちらほらとついていたので、おそらく赤色ハダニだ。
○キブリ退治できる私だが、ダニのつぶつぶしているビジュアルは、鳥肌が立つ。できれば応対したくないけど、やるしかない。

最初のキットとともに入手していた、虫除けを使ってみた。
が、対処が遅かったのだろうか。
葉の色が薄くなり次第に枯れてしまうという現象は止まらず、ついに9月初旬ごろ、私のミニトマトは全体的に枯れてしまった。


ちなみに、収穫は全くできなかったかというと、そうではなかった。
7月の下旬くらいから、ポツポツと収穫が始まっていたので、実際に自分が育てた作物を食べるという経験を私は得ることができていたのだ。

そしてここで、私は一つ気づいてしまった。
「自分で育てた作物を食べる」ことにそこまで感動を覚えていなさそうな自分がいることに。


では何に私の心は動いたのだろう。
どうしてミニトマトを栽培してみたかったのだろう。
どうして農なのだろう。

苗がどんどん育っていく(ん?昨日もうちょっと小さくなかった?と思う朝を何度も迎えた)

黄色い花が咲いた

花が咲いた後、緑色の実の形が現れた


私は、収穫前の過程で変化を観察すること、その中での創作をしたかったのではないだろうか。
人生や働く日々になぞらえて言うなれば、「あぁ、これは思っていたのとは違うな。」とか「うわっそういう展開になっちゃうか。(ひやり)じゃ、こっちにしてみるか。」みたいな瞬間。

結実の瞬間もひとしおではあるが、言葉にしたり、写真に撮っておかなければ、かんたんに流れていってしまいそうなひとこまをどうにか自分のもとに留めておきたいと思う。赤いミニトマトの写真よりも、5月、6月、7月…と実をつける前くらいまでの写真を見返す時の方が、なんだか感じることが色々ある。



「これをすればこうなる」という答えが今はたくさん見つけやすくなったと思う。あるいは、「こうはすれば失敗確率を下げられる系の答え」もインターネットの恩恵によりますます見つけやすい。
実際、ミニトマト栽培で私は、YouTubeを開き、「ミニトマト 間引き」と検索し、こうやるんだよと先人が教えてくれた通りにやった。実際に失敗確率は下げられたと思う。
例:間引きをするときは、ハサミを使った方が傷口からの感染を防ぎやすいとか

だけど、本当に、失敗確率を下げてくれるような確からしく感じる情報に頼り切っていいのだろうか。


もちろん、思考の補助線として、先人の知恵をかりるのもよいけれどね。
まぁ、ほどほどに、がいいと思う。



失敗確率を下げる目線で生きるよりも、何かにつまづいた時に、「どうする?次は何を変えてみる?そのままにすることと変えることはどの辺で線引きする?」こう考えながら実行を繰り返す方が、健全な、「答えのわからなさへの対処の仕方」であり生き方ではないかと私は思う。

答えがわからない感覚、この次に何が起こるかわからない状況下においてワクワクする気持ちも不安な気持ちも引き受け、胆に力を入れて佇むのは簡単ではない。この、答えがよくわからない状態を受け容れる能力のことを専門用語でネガティブ・ケイパビリティという。


実際のところ人生の中では、答えを誰かにもらえない事象はよく起こる。
自分で答えを創っていく瞬間がたくさんある。
だから、ネガティブ・ケイパビリティを常に試される環境に私たちはさらされているとも思う。
 




私は、失敗が怖いという声を聞く機会が度々ある。
私も、失敗が怖い。

事実、新卒の会社を半年で退職したことやそこまでの過程での経験は、それなりに自分の心に傷を残し、「失敗が怖い」エンジンをさらに動かしたと思う。

そんな背景が手伝って、割と私は「失敗が怖いの正体」を考えてきた自負がある。

一体自分に何が起こっているのか、調べたり、実践を重ねていくようになった。それで思うようになったのだが、多分、失敗が怖いの正体は、「すじのいい答えを見つけられない」かもしれないことへの恐れでもあるのではないだろうか。

そして失敗が怖いの解明が進むにつれて、28歳ぐらいの時、私は明確に決めたことがある。
「失敗」の代わりに、「つまづきが起こる」と考えるように思考の仕方を変えることにしたのだ。


「失敗が起こる」のではない。
「失敗のような"うまくいかない"事象を引き起こす"小石"が色々現れる」と。

目の前につまづきを起こす小石が現れたら、その小石をどうどかすか実験しよう。

足で蹴飛ばす?
手で拾い上げる?
枝でツンとやって動かす?

時々、一人では動かせないクソデカ石も出現するぞ。
いや、もう、それは岩壁といった方がいいようなものも現れる。仕事で引き受けるプロジェクトとかにもそういうものもあるかもしれない。巻き込む関係者も広く、高いレベルの知識も要求されるなどね。

「とても私にはこのクソデカ石を動かせそうにない。(涙)」と思う。
でも、すぐさま私は、待ったをかける。

「ちょっと脆そうなスポットをカリカリ削れたりしないかね?
ていうか、頑丈そうに見えて実は脆い岩壁だったりしない?」
「どこかにヒビは入ってない?そこから攻められない?」
「こういうクソデカ石を動かしたことある人はどこにいる?
その人はどんな工夫をしたんだろうね?」
「何人くらいでなら動かせそう?
どういう人が集まったら動かしやすくなるかね?」

こうやって、クソデカ石に対峙する問いを立て直して、答えを創っていくのだ。クソデカ石を観察して、どこで小石にかち割れるかと考える。
目の前の課題のわからなさ、そしてそれの解決策となる答えのわからなさのなかに佇む。

そして最終的に、クソデカ石を突破できた・できないにかかわらず、必ずやるべきことがある。それは、過程の振り返りだ。

過程の中で、自分が得た数々の学びにはとてつもない価値があることを心に留めておこう。例えば、クソデカ石の突破に励んだ1ヶ月、答えを創った瞬間瞬間が1日の中で何度もあっただろう。
過程というのは、自分が何かを選択した瞬間瞬間が折り重なったもので、その中で自分は必ず学習経験を積み重ねている。どんな学習経験をしただろう。そこには、次に進むヒントがたくさんある。

だから、突破できたらその事実は尊いものとして大切にしつつ、突破の"前"過程において得たものは何だったかについてもしっかり考え言葉にしておき、そこに健全な自信を持つ。
これは、自分には力があることを思い出すためにもとても重要な工程だ。

そんなわけで、答えを創ってみる過程を自分の手中に持ち続けてみよう。これがネガティブ・ケイパビリティの実践になる。



枯れてしまったミニトマトを網戸越しにみながら、今年の栽培計画を考えている。(どう次に繋げるか考え続けているうちに、実は枯れたミニトマトはベランダで冬を越した)
今年はミニトマトではなく、別の作物で、レイアウトも変えようかなど空想しながら。

人生は実験に満ちている。
つまづいて起き上がって、小石をどかし続ければいい。


参考情報

読み物
答えを急がない勇気 / ネガティブ・ケイパビリティの進め フライヤー要約

動画
【悩み】答えを急がない勇気を伝えたい!翻訳家・環境ジャーナリスト枝廣淳子が語るネガティブ・ケイパビリティ【カウンセリング】(前編)


【常識を破る思考法】ネガティブケイパビリティで深く対立した議論も乗り越えられる?原発をめぐり分裂した柏崎住民をまとめあげたネガティブ・ケイパビリティの本質力(後編)

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