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自己紹介

私のnoteについて

はじめまして。
奄美大島在住のめぐみです。めぐみは姓になります。「恵」と書きます。たまに名刺交換で「ご利益がありそうなお名前ですね」と言われることがあります。結婚して一時的に姓が変わりましたが、離婚したので旧姓に戻しました。色々ありましたが、確かに、仕事面では「恵」という姓は覚えてもらいやすいのと、「ご利益」があるように感じてもらえるのはメリットなのかもしれません。(本当はご利益などないですが、そう思ってくださったら、受け取り方でご利益になるのかも?とも思ったりします)

3年ぐらい前からnoteは書いていましたが、なかなか続けることができず、書いたりやめたり、ブログ歴でいうと、オリジナルやワードプレスなど色々と迷走していましたが、noteが一番使いやすく、ここ数年定着しています。


目次
プロフィール
読んでもらいたい読者層
書いていきたい記事の内容

プロフィール
恵夕喜子(めぐみゆきこ)1957年奄美市生まれ NPO法人ママの働き方応援隊理事長。家族は、14歳になるミニチュアダックス♂。関西に長男夫婦と孫の中三女子。マドリードに長女と孫3人がいるグランマです。夫とは15年目で離婚。自身の結婚・子育てを通して感じた「日本女性のライフスタイルをもっと輝けるものにしたい」をビジョンに掲げ、NPOでFC組織を立ち上げ、女性の様々な働く形を模索しつつ発信しています。

読んでもらいたい読者層・・これから結婚子育てなどをするであろう女性・男性、子育て中のママさんパパさん。企業の上層部の方々、行政関係者。

書いていきたい記事の内容・・日本女性の謙虚さは素晴らしいと思うものの、探究力の弱さで自身の可能性を閉じてしまっている。そんな女性たちに様々な角度から情報を提供し、自身の可能性に気づき行動に移せるきっかけとなる発信がしたいです。

これらに当てはまる方々を頭に思い浮かべながら、伝えたいことを書いていきます。そして当事者以外の方にもそんな女性たちとより良い日本の未来を作るためにそれぞれができることを考えていただき、行動に移していただくきっかけになれば嬉しいです。

私が特に気になる読者層

(1)自分が何がしたいかわからなくて悶々としている方
(2)結婚してから夫婦の会話がないと気になっている方
(3)日本女性は仕事と家庭の両立が難しいと感じている方
(4)国や企業の制度はあるものの何かフィットしていないと感じている方
大事なのは問題把握です。何が問題なのか?が気づくことができれば解決策はいくらでもあるということ。一度しかない人生を、物心共に豊かにするために、様々な情報を提供し、仕事を通して日本女性が輝ける社会にしたい。
・言いたいことはあるけれど、言語化が苦手、いつも周りの目が気になって差し障りのない関係性作りの毎日に嫌気がさしている。
・毎日が仕事や家事や子育てに忙しくて自分は一体何がしたかったのか?このまま歳をとっていくのか?と落ち込むことが多い。
そんな方々に向けて、自分自身の過去の経験や、世界の女性たちの事情、日本はこれからどの方向にいくのか?子どもたちに何を体験させるのか?そんなことを伝えていきたいと思っています。

自己紹介

(1)幼少期
南国奄美大島で5人姉妹の4番目に生まれました。全員が年子で長女と五女の歳の差は6歳。それには理由があります。奄美大島は日本でも男尊女卑が激しいと言われる、鹿児島県の離島です。母が嫁いだ頃は「男の子を産めない嫁は実家に帰れ!」と言ったことがまかり通る時代。母は男の子を産むために毎年出産していたのです。流石に5人目で諦めたようですが、4番目の私の時は「今度こそ男の子だ」とお腹の出具合などから周りが最も期待したそうです。当時は自宅出産だったのですが、私が女の子だとわかるとがっかりした父は数日帰ってこなかったのだとか・・・そんな話を聞いたからか?私は日本女性がもっと社会の中で輝けるサポートがしたいと思うようになったのかもしれません。

・幼少期の体験はその後の人生に大きな影響を及ぼす

(2)酒乱の父と楽天家の母

それでも年子の5人姉妹での生活は毎日がお祭り騒ぎで、日々笑い転げていたように思います。実家は途中から商売を始めました。働き者の母親と、あまり仕事に熱心ではない(多趣味な)父。特に父親は奄美大島の特産「黒糖焼酎」の一升瓶を3日で1本空けるほどの酒豪。そしてお酒が入って機嫌が悪いと、時々暴れて色々なものを壊していました。そんな時は、5人姉妹一緒にお布団の中で嵐が去るのを待っていた記憶があります。今思えば薄情に思えますが、父が暴れ出すと、母は子ども達を置いて一目散に近所の家に逃げ込んでいました。酷い母親だと思うかもしれませんが、しかし、これはDVの男性にとっては効果的で最近は推奨されているそうです。確かに、母がいなくなると父はぶつぶつ言いながら寝てしまい、翌朝、散らかった部屋を片付け、何事もなかったかのように明るい母に、父も何事もなかったかのように普通に会話をしていました。母は安定型の愛着、父は不安型の愛着だったようです。

愛着障害には安定型、不安型、回避型、というのがある。これらは0歳から2歳までの間の養育者との関わりの中で基礎が確定する

おすすめ本「愛着障害」

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(3)学生時代

そんな家庭の中で育ったのですが、母親の「働き者」「楽天家」が功を奏してか、食料品店という家業のおかげか?家にはたくさんの人が出入りする賑やかな家庭環境で、学校に行くのも楽しく、家に帰っても5人姉妹で仲良くしたり喧嘩したりとお祭り騒ぎの日々でした。そして、幼少の頃は引っ込み思案だった私が、中学校の運動会で詰襟で男子の格好をして、応援団をやった頃から、男の子のように振る舞うようになり、正義感が強く、理不尽な先生や男子学生にたてついて、殴られたりしながらも、その度に強くなっていった気がします。勉強は嫌いで、仲間とつるんで遊んでばかりでした。高校生の時に友達が「大学に行く」というのを聞いて「私も大学に行きたい」と父に言ったら「女が大学に行ってなんになる!」と怒られました。ノリで言っただけだったのですぐに諦めましたが、父の言葉を今でも覚えているのは、ここでも「男尊女卑」を感じたからかもしれません。

「とらうま」となっている言葉や状況は、本人のステージが上がることで、視点が変えればミッションにもなりえる

(4)憧れの大都会大阪で仕事・結婚

そんなこんなで、就活などは全くせず、大阪にいた叔父の紹介で当時景気の良かった老舗の繊維企業の経理部でキーパンチャーの仕事に就きました。パソコンがない時代。IBMの大型コンピューターで埃の入らないガラス張りのコンピューター室に隔離された状態で、テープに穴をパンチする機器でひたすら入力作業。5時に会社を飛び出すのが目標だったので入力は今で言うブラインドタッチ、しかし、間違いも多く私のせいで先輩の残業が増えたと聞かされたのは半年ぐらい後でした。

大都会、眠らない大阪の街を友達とうろつくのが楽しくて、土曜の夜は、当時のディスコ、今で言うクラブで、朝まで踊り明かしていました。そんな時に出会った男性と23歳で結婚、24歳、25歳で年子のこどもを授かり仕事を辞めて専業主婦に。(当時は寿退社なるものがあり結婚したら女性は仕事を辞めて家庭に入るのが慣習になっていました)

「無知の知」情報化社会の今からは考えられないほど、自分で考える教育を受けていないからか、結婚したら仕事は辞めるもの。「行かず後家」と言う言葉に怯えて、求婚されるままに、結婚はできる時にしておこうと言う感じでした。

(5)退屈な専業主婦「生産性のない自分」に愕然

子どもができてからは大阪の豊中市という住宅街の団地暮らし。当時の言葉で「公園デビュー」を果たしたのです。子どもを産むまでは知らなかったのですが、乳幼児を連れての行動範囲は一気に狭くなり、家と公園とスーパーの往復(これは令和の今でも変わらないようです)の毎日。自分の意思というよりも子どもの意思を優先するため、学生時代には絶対に遊ばなかったであろうタイプの「ママ友」と、毎日公園で子どもが遊んでいる間おしゃべり、その後、それぞれの家をローテーションで回る「家ランチ」。夕方に解散という日々。そんなある日、商売人の家庭で育った私は、ふと気がついたのです。「なんて生産性がない日々なんだろう」と・・・

そしてママ友を説得し、近所の和食屋さんの店長を口説いて、「3人で2人分の給与で働かせてください」と、今で言うところのワークシェアリングをやったのです。お皿洗いとお運びがこれほど楽しいと思ったのは後にも先にもあの時だけかも?

人は仕事を通して社会参加することで人間だけにあると言われる、所属本能、認知本能、向上心と言った「マズローの欲求段階説」が稼働し出す

(6)家庭よりも仕事が楽しいワーカホリック

子どもたちが保育園に入れたのを機に当時バブルが始まったばかりの証券会社で、証券外務員の資格を取得、営業職に就くことに。3年ちょっと専業主婦だった私が、29歳でバブル期の証券会社に入った事で、「世の中にこんなにお金持ちがいるんだ」と今まで知らなかった世界を垣間見ることになりました。学生の頃は全く勉強しなかった私が、資格を取り、日本の政治経済のど真ん中に位置する「証券取引」という離島では考えたこともなかった世界。持ち前の負けず嫌いと好奇心は競争心を掻き立て、自分ではみたこともない数千万〜数億円というお金を動かす楽しさに、毎日はまさにバブリー。金銭感覚は完全に麻痺していた時期でした。

そんな中、子どもたちは思春期に。家族との繋がりは仕事がお休みの日にお金を使い楽しいことをするだけ。気がついたら15年間の結婚生活にもピリオドを打つことに。そして、12年間勤めた証券会社も、人様のお金で一喜一憂する生活がいやになり退職。大手信託銀行で数年務めた後、女性経営者に特化したコンサルティングの会社でコンサルタントの仕事を経験し、独立することに。

ここまでが私の人生の前半戦です。(長く生きているから書くことがたくさん!(笑))ここから先はまた「第二部」としていつか書いてみたいと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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