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拮抗ではなく補完する感覚たち

もう一月も終わろうとしているが、たまたま知人に今年の抱負を話す機会があり、「今年のテーマは、英語とアートに触れることにしたんです!」と言っている自分がいた。

英語は様々な価値観に出逢ういつかのために。
アートは私が私らしくあるために。

英語に関しては、1分くらいの動画を2日に1回くらい見ている。その他、英語で日記を書くことを試みて、それならばSNSに投稿しながら頑張ってみることにした。これは4日に1回くらいはできているだろうか。「誰か添削してほしい!切実!」と投稿したら、国際結婚をした友人夫婦が協力してくれることになり、願いを言葉にするって大事だな〜と感じた。この友人夫婦を巻き込んだことにより、三日坊主にもならず、なかなか頑張れている。

アートに関しては、自分を高めるためというわけではなく、ただただ自分にご褒美をちゃんとあげたい!という意味だ。私の一番のご褒美時間は、美術館に行くことなので、その至福の時間を今年は月に一回くらいは作ろうと決めたのだ。一人で美術館に行っている自分を想像すると、それだけで他の日も楽しい。自分が自分の好きなことを知っていて、自分を満たしてあげられることが一番自分を安定させられる。それが暮らしの基盤になるし、家族にとってもそれが一番だと思っている。

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この英語をやることと、美術館に行くことをテーマに掲げた自分を振り返ってみて、「あれ、なんか相反することをテーマに掲げていて面白い」と思ったのはきっと私だけだろうけど、ここにその気づきを記しておきたい。

言語化することと直感を満たすこと、いわば対立的なことをテーマにしていると思ったのだ。
知性⇆本能を行き来することで、お互いを補完しバランスをととりたいのかもしれないとも思った。

最近、シュタイナー教育のことに興味があって知ったのだが、シュタイナー教育では人間の感覚には12の感覚があるという。そして、その感覚は6つずつの対になっているということを聞いた。あぁ、まさにこれだなと思ったのだ。

例えば、1.触覚と12.自我感覚。実体のあるものを触り感じることが触覚、他者の境界内に入って相手の自我を感じることが自我感覚であると理解すると、この触覚があるからこそ、自我感覚が育つというものらしい。その逆も然り。実体があるという安心感があるからこそ、そこから実体のないものを感じられるようになるということなのかしら、、

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とにかく、感覚は拮抗し合うのではなく、補い合って発達していくということを知った。自分を通して相手を知る、相手を通して自分を知るというのと似ているかもしれない。

これを受けて思ったのが、先ほどの言語化しようとする自分と、アートで言葉では表せられない感情の動きを感じたい自分と、いわば拮抗的に見える自分がいるということ。このなんだか面倒な感じに一気に愛着が湧いた。

私は私でバランスをとろうとしている!そんなことを思って、まわりくどく、自己肯定感を高めている私こそが私なのだなと変に腑に落ちてしまった。

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