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第28週 歴史上の人物 坂本乙女

はじめに

第28週の歴史上の人物は坂本龍馬のお姉さん坂本乙女さんです。

出生と名前


坂本 乙女(さかもと おとめ)さんはは留(とめ)として1832年2月2日(天保3年1月1日)土佐藩郷士坂本八平氏と幸さんの3女として高知にお生まれになりました。龍馬は弟です。

乙女(をとめ)は「お留」への当て字で(ただし旧仮名は異なる)「乙女」を「とめ」と読むこともあるそうです。


子ども時代


留さんはお父さんに似て、薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったことが知られています。

また身長5尺8寸(約175cm)・体重30貫(約112kg)という、当時としても現代にしても大変に大柄な女性であったと伝えられています。


母親代わり

弘化3年(1846年)に母・幸さんが死去されると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教え、また彼が当時患っていた夜尿症を治したこともあったそうです。

留さんは当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っており、龍馬が負けて悔しがって泣いても高笑いし「それでも男か!」と言ったり、龍馬が大好きだった「足相撲」は負け知らずであり、強い脚力で龍馬を負かしていたそうです。

当時は女性は下着を着用していなかったため、白熱して下半身が丸出しになっても乙女は龍馬が負けるまで辞めないため、他の兄弟や父親が止めるまで龍馬をコテンパンにしていたと伝えられています。

結婚と離婚

当時は、背が低く、色白でややぽっちゃりしているしおらしい女性が美人とされており、正反対である乙女を龍馬以外の家族や身内は「将来貰い手がいないのではないか?」と心配していた。

安政3年(1856年)、典医・岡上樹庵氏と結婚して、一男一女(赦太郎・菊栄)をもうけられますが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で慶応3年(1867年)に離婚し、実家に戻られます。


龍馬との関係

留さんは龍馬のよき理解者として、相談に乗ったり励ましたりしたという。龍馬は手紙を書くことを好んでおり、あらゆる人に当時はかなり高価である手紙を出していたが、一番多かったのは留さんへの手紙であったそうです。

手紙の内容はたわいないものであり、立派に勉強していることを自慢する内容や、好きになった女性や結婚相手の相談まで留さんに書いていたそうです。

また龍馬の妻お龍とは不仲で、結婚も反対していたといわれています。

龍馬の死後

「龍馬暗殺後、坂本家に身を寄せたお龍が程なく同家を去り各地を放浪した」とされているそうが、近年の史料では「乙女はお龍に対し親身に接していた」ことが明らかにされているそうです。

晩年は独(どく)と改名し、養子の坂本直寛(のち北海道北見市の開拓に従事)と共に暮らされたそうです。

1879年(明治12年)、壊血病に罹り死去されました。享年48(満47歳)だったそうです。

当時、死の病でもあったコレラの感染を恐れて野菜を食べなかったことが原因といわれているそうです。


坂本乙女さんについて以下の記事を参考にしました。



めぐめぐが思う坂本乙女さんのすごいところ

1当時の日本の女性からかけ離れた体格と大きさとそして文武両道の才能があられた方だったこと

2坂本龍馬という人物を育て、ある意味最後まで支え続けた人であるということ

3そして弟の死後も義理妹に対して優しくされるなど、生涯人を大切に生きられたこと

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